土持政照(つちもち まさてる)流罪の西郷隆盛を助け沖永良部島の発展に尽くす

土持政照(つちもち まさてる)は沖永良部島で間切横目(警察)をしていた役人です。

西郷吉之助(隆盛)が沖永良部島に流罪になった時に、吉之助の牢獄の番をしていました。土持政照は衰弱する西郷吉之助を支えました。

その縁で知り合い、義兄弟の契りを交わしたといわれます。

土持政照とはどんな人だったのでしょうか。

 土持政照(つちもち まさてる)とは

名 前:土持政照(つちもち まさてる)
生 年:天保5年(1834年)
没 年:年月日(1703年)
父:土持綱政 
母:鶴
子:土持綱義

父・土持綱政は沖永良部島で役人をしていたことがありました。そのときに現地の女性・鶴との間に産まれたのが政照だといわれます。

政照は土持綱政につれられ鹿児島で教育を受けました。しかし綱政の本妻が子供を産んだため。沖永良部島に戻されました。

沖永良部島和泊村で間切横目を努めました。間切横目は代官の下で働く村の警察のような役割です。

西郷吉之助との出会い

文久2年(1862年)8月14日。西郷吉之助(隆盛)を乗せた宝徳丸が沖永良部島に到着しました。

土持政照は代官の黒葛原源助、付属役福山清蔵といっしょに西郷を出迎えました。

西郷は黒葛原源助たちに、「遠来の労に感謝します。これからは一流罪人として各位を煩わすことになりますが、よろしくします」と言ったといいます。

土持政照たちは西郷の礼儀正しさに感激したといいます。

西郷は「もう一度この土を踏みしめさせてください」と用意した馬には乗らず、歩いて和泊役場に行きました。

西郷が入れられた牢は二坪ほどの狭さでした。戸も壁もなく夏は太陽の日が差し込み、冬は冷たい風が入り込みます。体格のいい西郷もやせ細りました。

土持政照は西郷の身がもたないと考え、家で作った食事を持っていきます。しかし西郷は「美味しいものを食べると死に顔が見苦しくなる」と断りました。やがて西郷は病気になりました。

気の毒に思った政照は座敷牢を作り、隆盛はそちらに移ることが出来ました。

政照の手厚いもてなしに感激した西郷は政照と義兄弟の契りをかわしました。

政照は島流しになっていた川口雪蓬に頼まれ、西郷に紹介しました。川口雪蓬と西郷吉之助は意気投合し、薩摩弁で鹿児島のこと、日本のことなどを語りあったといいます。

役人としての心構えを教わる

土持政照は西郷より役人や警察としての心構え聞いた所、西郷は「与人役大体」、「役目役大体」を書いて渡しました。西郷は土持政照は若いが将来、島を背負う人物になると考えたようです。

沖永良部島は台風が多く、飢饉になる心配もありました。そのため、西郷は皆で力を合せて、米や麦を蓄えておき、飢饉の時に人々に配るのがよい。と土持政照にアドバイスし「社倉趣意書」を書いて渡しました。

元治元年2月(1864年)。西郷は流罪が解かれ、鹿児島に戻ります。
土持政照はその後も島の役人を務めました。

助け合いの組織 沖永良部社倉

明治3年(1870年)。土持政照は凶作に備えて沖永良部社倉の設立にかかわりました。西郷に教わった「社倉趣意書」が役に立ったのは間違いありません。

沖永良部社倉は人々が助けあう組織、協同組合です。飢饉のときに人を助けるだけでなく、病院を建てたり、貧乏な人、学費に困った人を助けました。

明治35年12月4日死去。享年69。

土持政照の子・土持綱義は和泊村の初代村長になりました。