長宗我部元親・四国の覇者(前半生)

四国の覇者、長宗我部元親。

全国的な知名度はほぼないに等しかった武将ですが、ゲームやアニメで注目され全国に名が広まりました。

美形ということになってますが。

本当の元親はどんな人だったのでしょう。

長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)

長宗我部家は土佐国の国人領主の家柄でした。

長宗我部とは変わった名前ですね。

祖先は 宗我部(そがべ)と言いました。似たような名前に「曽我部」という苗字はありますが、漢字が違うだけで、もとは同じだったようです。
でも土佐の長岡郡に住んでいたので「長」の字を取って「長宗我部」となったんですね。

室町時代末期、土佐の国は守護大名の細川家が弱体化。一条家を中心に本山、吉良、安芸、津野、香宗我部、大平、長宗我部の土佐七雄が勢力争いをしていました。

長宗我部家は土佐七雄の中でも最も小さな勢力でした。
元親の祖父・兼序は永正5年(1508年)、本山氏などによって居城である岡豊城を追われています。
永正8年(1511年)、一条氏の仲介もあり本山氏と和睦。岡豊城に戻ったといいます。
永正15年(1518年)ごろ息子の国親に家督を譲りました。
国親は長宗我部家を再興させ、

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女のようだと言われた幼少時代

天文8年(1539年)。元親は国親の嫡男として岡豊城(高知県南国市)で生まれます。
幼いころは長身でしたが色が白く大人しい子供でした。内向的で人見知りする性格だったのか人に会ってもはっきりと挨拶のできないこともあったようです。
成長しても武芸よりも書物を読むのが好きな若者でした。

家臣からは「姫若子(ひめわこ)」とあだ名され、女の様なやつといわれるありさまでした。父、国親も家督を継がせていいのか悩んでいたといわれるくらいです。初陣が22歳と遅くなったのはそのせいかもしれません。

永禄3年5月(1560年)。元親22歳のとき、長浜の戦いにて初陣を迎えます。祖父の代からの因縁の相手、本山家との戦でした。当時、本山家は土佐でも一二を争う有力大名でした。この戦いで元親は槍を武器に戦い的に突撃3騎を倒したといいます。この戦いで元親の勇猛さが広まり、「鬼若子(おにわこ)」と呼ばれるようになります。

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元親の土佐統一

しかし永禄3年6月(1560年)、父・国親が急死。元親が後を継ぎました。元親は更に本山家を攻めます。

永禄6年(1563年)美濃国・斎藤氏から正室を迎えます。

永禄11年(1568年)本山親茂を降伏させ支配下に起きます。土佐の中央部(高知県高知市・南国市のあたり)を制圧しました。

永禄12年(1569年)、土佐東部を支配していた安芸国虎を八流の戦いで破り安芸家を滅ぼしました。
元亀2年(1571年)津野氏を滅ぼし、三男親忠を後継者として送り込みます。

天正2年(1574年)土佐西部を支配していた一条家の内紛に介入して一条兼定を追放、兼定の息子・内政に娘を嫁がせて一条家を支配します。

天正3年(1575年)伊予に逃れていた一条兼定が伊予の武将を引き連れて元親に戦いを挑んで来ました。四万十川の戦いで兼定を破り土佐を統一します。

その後、織田信長と同盟を結びます。
妻の兄は明智光秀の家臣・斉藤利三でした。その縁を使信長とは連絡をとっていたようです。

元親の四国統一と信長

土佐の国を統一した元親は四国統一へむけて動き出します。

讃岐、阿波を支配していたのは三好氏でした。近畿での勢力は衰えたとはいえ、四国では依然として大きな勢力を残していました。当初、元親は三好氏相手に苦戦します。

しかし、天正5年(1577年)に三好長治が亡くなると三好氏の勢力は衰え始めます。

天正6年2月(1578年)、大西覚養の居城、阿波白地城(徳島県三好市池田町)を攻め占領します。白地城は讃岐、阿波、伊予の交わる重要拠点。四国統一を考える元親にとってはどうしても欲しい城でした。元親は「この大西(白地城)は阿波、讃岐、伊予の辻にて、どこへも出入り自由だ。ここさえ手に入れば満足だ」と言ったといいます。

讃岐・阿波では三好長治の弟・十河存保と三好康俊が立ちふさがりました。

天正7年(1579年)。十河存保と戦い重清城を奪い取ります。三好康俊は岩倉城に追い詰めて、息子を人質に出すことで降伏を認めます。讃岐の他の豪族も降伏させ、天正8年(1580年)に讃岐、阿波を制圧しました。

伊予では東部の豪族は服従させましたが、河野氏が毛利氏の援助を受けて抵抗したため、なかなか統一ができませんでした。

長宗我部元親の四国統一を快く思わなかったものがいます。織田信長です。
長宗我部と織田は同盟を結びました。信長は四国の支配は長宗我部に任せるといいました。しかし、土佐と阿波の半分だけを残して残りは織田に差し出して服従するように迫ってきました。

元親はこれを拒否します。

信長の助けを受けた十河存保と三好康俊が元親に抵抗を行います。
天正10年5月(1582年)。神戸信孝(織田信孝)を総大将とする四国攻撃軍が編成されました。

すると、元親に降伏していた旧三好家臣団が寝返ります。元親は一宮城と夷山城を奪われます。

さすがに、これではまずいと思ったのでしょう。元親は妻の兄・斉藤利三に対して織田に降伏する内容の書状を出しました。

四国攻撃軍が出発することになっていた、6月2日の未明のことです。

本能寺にいた織田信長が明智光秀によって討たれました。これによって四国攻撃は中止になりました。

直前で命拾いした元親。

四国統一はもうすぐです。