長宗我部盛親・大坂の陣に土佐長宗我部家の再興を賭ける

七つカタバミ

長宗我部家の家紋 丸に七つ片喰

長宗我部盛親は土佐の戦国大名。
関ケ原の戦いで敗れたあと、大坂の陣にも参戦しました。
盛親が大坂に来た目的はただひとつ。
土佐で長宗我部家を再興することです。

若いころから荒々しく、家臣にも厳しかった盛親。
大坂の陣で敗北しても処刑される寸前までその気概は衰えませんでした。

土佐の荒くれ武者、長宗我部盛親とはどんな人だったのでしょうか。

 長宗我部 盛親 とは

生年:天正3年(1575年)
没年:慶長20年5月15日(1615年)
生誕地:土佐国(高知県)
名前:長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)
通称:右衛門太郎
幼名:千熊丸
父:長宗我部元親:四国を統一した土佐の戦国大名
母:斎藤利三の妹

長宗我部元親の4男として生まれます。
当初は家督を相続する立場にありませんでした。

天正14年(1586年)。兄・信親が戸次川の戦いで戦死。次兄・香川親和、三兄・津野親忠を支持する家臣たちと相続をめぐって対立します。父・元親が盛親を後継者に選んだことから、盛親が長宗我部家の家督を継ぐことになりました。盛親が家臣から指示されなかった理由は、性格が短気で傲慢だっため人望が薄かったためといわれます。

しかし他の兄はすでに養子に出て他家を継いでいました。元親は信親の娘と婚姻させることで盛親を長宗我部家の後継者にしたのでした。しかし当時盛親はまだ12歳の少年です。家督を譲るのは先の話。しばらくは元親が長宗我部家の当主でした。

天正18年(1590年)。豊臣秀吉の小田原征伐では父・元親とともに水軍を率いて参戦。
天正20年(1592年)。朝鮮出兵に参戦。
慶長2年3月24日(1597年)。父・元親と作成した「長宗我部元親百箇条」を発布。
慶長4年5月(1599年)。父・元親死去。長宗我部家の家督を相続します。しかし後継者になった経緯が異常なため、豊臣政権からは正式な長宗我部家の当主と認められていなかったとも言われます。

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関ケ原の戦い

慶長5年(1600年)。関ケ原の戦いでは西軍に所属しました。五奉行の増田長盛や垣見一直と親交があったためといわれます。
盛親は、宇喜多秀家らとともに東軍の伏見城や安濃津城などを攻略しながら関ケ原に向かいます。毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣します。家康本陣の背後に位置する場所でしたが。長宗我部隊は毛利隊の後ろに布陣してました。ところが山の出口に布陣していた吉川広家の裏切りにより毛利隊が下山できず足止めされました。盛親は戦の状況が分からず動けないまま戦いには加われませんでした。

西軍が敗北したのを知ったのは島津義弘の知らせが来たことと、吉田重年の偵察によってでした。

その後、池田輝政軍や浅野幸長に追われましたが、伊賀(三重西部)から和泉(大坂南部)に逃げて土佐に戻りました。

盛親は土佐に戻り、親交のあった井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしました。
しかし家康に兄・津野親忠を殺害したことがばれたため、家康の怒りをかい領地没収となりました。家臣達は散り散りになってしまいます。

関ケ原の戦いのあと

盛親は京に送られ、幕府(京都所司代)の監視のもと謹慎生活をしました。旧家臣の仕送りで生活したとも、寺子屋を開いていたとも言われます。

慶長19年(1614年)秋。豊臣家と徳川家の争いが始まります。盛親の元にも豊臣秀頼の誘いが来ました。
9月。盛親が豊臣家に味方するのではないかと警戒する京都所司代の板倉勝重は盛親のもとをおとずれ、意思を確かめます。盛親は、関東方に味方して手柄を立てたいといって勝重を油断させました。

盛親は6人の従者をつれて京を脱出。大坂に向かいます。大坂に向かう盛親の元には途中で土佐時代の家臣や浪人が合流しました。
10月6日。盛親たちは大阪城に入りました。このときには1000人もの兵を従えていました。さらに、長宗我部家再興を願う旧臣・中内総右衛門も加わり浪人の中では最大級の勢力となりました。真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登とともに大坂五衆といわれ、大坂方の中心的兵力となります。

盛親の目的はただ一つ。長宗我部家の再興と土佐の領地を回復することです。

当初、真田丸には真田信繁の部隊が守備する予定でしたが、数が少ないという信繁の要求で盛親の部隊も真田丸を守ることになりました。

大坂夏の陣

真田丸・城南の戦い

慶長19年12月4日(1614年)。幕府軍が大坂城に攻めてきました。
盛親の部隊は八丁目口に布陣します。谷町口から八丁目口にかけては元親のほか木村重成、後藤基次ら有力部隊が配置されていました。実際の戦闘では真田丸だけでなく大阪城南側の谷町口・八丁目口・真田丸の一帯で激しい戦闘が行われました。

その後は、幕府軍は無茶な突撃は行わなくなり、鉄砲、大砲を使った攻撃に移ります。その間も盛親たちは抵抗をつづけます。
12月20日和議が成立。戦闘は終わりました。

堀は埋められ大阪城は裸城となりました。
和議の間、大坂城内では和平派と徹底抗戦する主戦派の意見が対立しました。盛親は大野治房、毛利勝永らとともに主戦派の一人とされています。

慶長20年5月2日(1615年)。進軍してくる幕府軍に対して、大坂城東側の湿地帯で迎え撃つことにしました。湿地帯は足場が悪く大部隊の行動がしにくいからです。

大坂夏の陣・八尾の戦い

木村重成の部隊6000とともに、長宗我部盛親、増田盛次の部隊5300が出陣しました。

5月6日。長宗我部隊先方の吉田重親は萱振村に進軍中、藤堂高虎の部隊に攻撃を受けました。攻撃を受けていると本隊に知らせましたが吉田重親は戦死します。

盛親は長瀬川の堤防付近で藤堂隊を迎え撃ち、藤堂隊を撃退します。この戦いで藤堂隊の藤堂高刑、桑名吉成、藤堂氏勝が戦死しました。藤堂高虎隊には旧長宗我部家の家臣も召し抱えられていました。

戦いの後休憩していると、木村重成戦死の知らせが届きました。井伊直孝の隊が迫っているとの知らせもあり、戦場で孤立するのを防ぐため大阪城に撤退しました。

5月7日の最終決戦には出陣していないことから、6日の戦闘か城に戻る途中で壊滅的な被害を受けたのではないかと考えられています。井伊直孝と戦って敗退したのかもしれません。

盛親の最後

大阪城落城時に脱出。京へと逃れました。山城国八幡(京都府八幡市)付近の橋本近くの葦に潜んでいるところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかりつかまりました。その後伏見につれていかれ、市中引き回しのあと、鴨川の六条河原で処刑されました。享年41。

捕えられると「出家するから」とまで言って命乞いしたといいます。処刑されるときなぜ潔く自刃しなかったのかと聞かれると「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」とも「一方の大将たる身が、葉武者のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」とも言ったといいます。

もちろん生かしておいたら何をするかわからないので家康は処刑を命令じました。どんな手を使ってでも生き延びて再起を図ろうという、武家に似合わぬ泥臭いしぶとさを感じます。

生き延びた長宗我部家

長宗我部家の直系は途絶えました。しかし盛親の叔父・親房が長宗我部の名を残しました。

親房の息子、五郎左衛門は盛親に従って大坂の陣を戦ったあと落ち延びて土佐に戻ったといいます。しかし、山内家の治める厳しい身分制度の土佐藩で長宗我部家の家臣の多くは下士にされ差別されてきました。五郎左衛門は”長宗我部”の名を名乗ったため投獄されたといいます。その子孫の方は今でも続いているそうです。