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「真田丸」コワモテの長宗我部盛親が小心者に!このギャップはどこから来たの?

真田丸

強面なのにどこか愛らしい憎めないキャラ。
真田丸にはそんな、武将が何人か登場します。

綾田 俊樹さん演じる矢沢頼綱に、藤岡弘、さん演じる本田忠勝。でも彼らは真田丸のクライマックスにはいません。すでに亡くなっていまいた。

ところが最後の最後になってあいすべき強面キャラがまた登場。

それは長宗我部盛親でした。

いったいなんでこんなキャラになってんでしょうか。

目次

暴れん坊大名・長宗我部盛親が癒し系に?

ドラマでは、阿南 健治 さん演じる長宗我部盛親は、見た目は強面の戦国武将といった感じ。

ところが、信繁が話してる奥で花に水をやったり。部屋にひとりでいるのが寂しかったと言ったり、豪快な外観ににあわず意外と繊細なところを見せています。

その後も、戦は嫌いだと言ったり後藤又兵衛が大将に担ごうとしても断ったり。小心者な一面が暴露されてしまいます。

大坂に来る前は、京都で寺子屋をしていたという盛親ですが、なんで戦嫌いなのに大坂に来たのかと問われると、家臣のために長宗我部家再興をしたいと答えます。

歴史の長宗我部盛親はどんな人?

この盛親を見て、歴史ファンほど驚いたんじゃないでしょうか?なにしろ、これまでの長宗我部盛親のイメージは荒くれものという評判でした。もちろん、本当はどんな人なのかわかりません。文献に書かれていることから想像すると、見た目はどおりの乱暴な人というイメージでした。

身長は6尺(180cm)あったとされているので当時としては大男です。父の長宗我部元親や兄の信親も背が高かったということなのでそういう家系なのでしょう。子供のころから短気な性格で人望がなかったといわれます。でも他には2人の兄がいたにも拘わらず、元親は四男の盛親を後継者にしました。他の二人の兄が養子に出ていたのもありますし、風貌が信親に似ていたとも言われますし、理由ははっきりしていません。

関ヶ原に行ったのに、動けないまま敗退

そんな盛親ですが、関ケ原の戦いに出たところ。毛利軍とともに南宮山に布陣します。ところが毛利家の先方、吉川広家が裏切ってしまい軍を動かしませんでした。山の出口に陣取る吉川軍が動かないとその後ろにいた毛利軍も、長宗我部軍も動けません。結局、盛親は戦うことなく戦に負けてしまいました。

ちなみにこのとき、毛利勝元も同じ山にいました(毛利勝永と中国地方の毛利家は血縁関係ありません)。意外なところで縁がありますね。ちなみに関ケ原のあと、毛利勝永が匿われていたのは土佐の山内家でした。長宗我部盛親の領地だった土佐です。

元大名が寺子屋経営

その後、盛親は領地を没収され京に送られます。町人の家に預けられましたが、しっかり京都所司代の監視付きです。京で浪人生活をしていた時の盛親は、旧家臣の仕送りで生活していたといわれますが、寺子屋を開いていたという記録もあります。元大名ですから読み書きはできるとしても、寺子屋とは・・・意外と子供好きだったのでしょうか。

しかしそんな盛親にも、大坂城に来た時には1000人近くの旧家臣や浪人達が従ってきたといいます。浪人になってしまった家臣としてはお家を再興してもらわないと困りますが、嫌われ者だったらそんなには集まらないと思ういますが。現代人が思ってるほど嫌われてはいなかったのかもしれません。

潜伏するもお金が原因でバレてしまう

盛親は真田丸で守っていたという記録もあり、意外なところで活躍してたりします。大阪城落城の際には、逃走して京に潜伏。八幡で潜伏中を幕府につかまってしまいます。ことのとき、部下が買い物をしたときに使った金が豊臣家の発行したものでした。そのせいでばれてしまったとも言われています。

捕まると命乞い

結局つかまってしまうのですが「出家するので命を助けてくれ」と命乞いするんですね。武士らくないと思えますよね。でもこれについてはあとで理由を書きます。

ドラマのキャラはなぜ小心者になったのか?

盛親って、意外とトホホなエピソードがあったり、情けない部分があります。そのあたりが小心者キャラになった理由かもしれません。まあ大坂五人衆の後藤又兵衛と毛利勝永が強面&強気キャラなのでかぶってしまうのを避けるためもあるかもしれませんね。

おかげでむさ苦しい面々の中にあって、ほっと一息つけるそんな存在になってしまいました。

長宗我部盛親が生き残ろうとした理由

情けないエピソードのある盛親ですが、ここで盛親の名誉のために書いておきます。

盛親はつかまった時、なぜ「潔く自刃じなかったのか」と幕府の役人ん位聞かれました。盛親は「家康と秀忠をこのような目にあわせるため」と答えるんですね。

「大将は軽々しく死ぬべきではない、機会があれば再び戦って恥をそそぐのだ」とも答えます。

そして処刑のときは少しも怖じけることがなく堂々としていたといいます。

大阪城落城でも自害しなかったり、隠れたり、命乞いしたのは機会を見つけて兵を起こして汚名返上する。絶望的な状態になっても、簡単には死なずに復活しようと考えてたんですね。元は土佐一国の大名ですからこのまま死ねないという想いはあったのでしょう。

豊臣家へ忠誠を尽くしたい毛利勝永(ドラマではそうは描かれてませんが)、死に場所を求めたい後藤又兵衛、家康に復讐したい真田幸村とは大坂に来た理由が違います。

現代の我々が考える武士の生き方とは違うように思うかもしれませんが。戦国時代の武士は命を捨てることが名誉だとは思ってなくて、しぶとかったんじゃないでしょうか。

改めて長宗我部盛親ってどんな解釈もできる不思議な人物だと思います。

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