宇喜多秀家・関ケ原で西軍の主力となった反家康の中心勢力

宇喜多秀家は五大老の一人。
関ケ原の戦いで奮戦するも破れました。

宇喜多家というと、宇喜多直家を思い出す人もいるかもしれませんが。
主君の家を乗っ取った直家と違い、
裏切者が続出する関ケ原の戦いでも豊臣家に忠義を尽くしました。

関ケ原の戦いでも中心的な働きをしました。5大老の一人である宇喜多秀家は関ケ原の戦いに参戦した西軍では17000という最も多くの兵力を持ち西軍の主力として激しい戦いを行いました。

宇喜多秀家とはどんな武将だったのでしょうか。

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宇喜多秀家誕生から大名まで

元亀3年(1572年)、備前国 岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれました。
通称は八郎。
父・直家は策略に優れ、浦上家を乗っ取りました。直家を戦国有数の悪人と考える人もいますが、この時期下剋上は珍しいことではありません。

宇喜多家は毛利家に属していたこともありました、織田信長の中国進出では織田家に寝返りました。

天正9年(1581年)、父・直家が病死。秀家が家督を継ぎました。しかし秀家は9歳。叔父の宇喜多忠家が軍を率いました。
宇喜多軍は羽柴秀吉の軍に加わえられました。

 本能寺の変後、宇喜多家が所属していた羽柴秀吉が毛利家と和睦。宇喜多家と毛利家も和睦しました。宇喜多家は美作・備前の大名となります。毛利家に対する監視役を任されたのでした。 

豊臣政権で重要な地位に上り詰める

秀家は秀吉から気に入られ、養子としての待遇を受けました。「秀」の字は元服の際に秀吉から授かったものです。正室には前田利家の娘であり、秀吉の幼女として育てられた豪姫を迎えました。血縁関係はありませんが秀吉の信頼は厚く、豊臣家の一門として待遇を受けます。

天正12年(1584年)、小牧長久手の戦いでは出陣する秀吉に代って大阪城を守る役目を与えられました。そのとき、秀吉の留守の間に攻めてきた雑賀衆を撃退しています。

天正13年(1585年)、紀州征伐に参戦。四国の長宗我部との戦いでは讃岐国に上陸し、阿波国で戦いました。

天正14年(1586年)、九州の島津との戦いに参戦。
この年、豊臣の姓と羽柴の名字を与えられます。
天正18年(1590年)、小田原の北条攻めに参戦しました。

朝鮮出兵(文禄の役)では大将として参戦。
続く慶弔の役では監軍として参戦、味方の働きぶりを監督する役目を担うとともに自らも南原城を攻略、全羅道、忠清道を制圧するなど手柄を立てました。

豊臣秀頼誕生後は五大老の一人となりました。

秀吉死後

秀吉の死後、慶長4年(1599年)に重臣の戸川達安・岡利勝らが秀家の側近・中村次郎兵衛の処分を求めますが秀家は拒否。中村次郎兵衛と戸川達安・岡利勝の対立が起こります。秀家は戸川らを処分しようとしましたが、秀家と不仲だった宇喜多詮家が達安らの味方をしたため、騒動に発展しました。徳川家康の調停によって治まりましたが、宇喜多家から多くの家臣が出ていくことになりました。有力な家臣を失い宇喜多家の弱体化につながったといわれています。宇喜多騒動といいますが、詳しい原因はわかっていません。秀家の素行に問題があったとも、家臣団の不仲が原因にあったともいわれます。

 

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関ケ原の戦い

豊臣秀吉の死後、慶長4年(1599年)秀頼の後見役だった前田利家が他界します。徳川家康は秀吉の遺言を守らず、勝手に養子縁組をするなどの独自の活動を始めます。

加藤清正・福島正紀の武断派が石田三成を襲撃する事件が発生。秀家は佐竹義宣とともに三成を救出し伏見城へ逃します。
このとき調停した家康は石田三成を隠居させ。豊臣政権下でますます影響力を高めます。

なお、三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだというのは明治以降の資料にある俗説。当時の資料にはその記述はありません。

西軍の中心勢力として戦う

徳川家康が上杉景勝征伐のため出兵すると、石田三成が挙兵。秀家も家康を快く思っておらず、7月1日には決起します。
秀家は西軍の毛利輝基に次ぐ西軍副大将となり中心的な働きをします。

伏見城の戦いでは中心となって伏見城を攻略します。
その後、秀家の軍は伊勢路を進軍、筒井定次の伊賀上野城、富田信高、分部光嘉らの安濃津城、古田重勝の松坂城を次々と落とします。伊勢方面の東軍を攻略していきました。さらに尾張方面の攻略をめざしますが、東軍の先発隊が清州城に到着したとの連絡をうけ。石田三成と合流すべく大垣城へ向かいます。

慶長5年(1600年)9月15日。関ケ原の戦いでは、東軍の福島正則隊が先陣となって秀家隊と衝突。ここに関ケ原の戦いが始まりました。秀家隊は西軍の主力として東軍の福島正則らの部隊と激しく戦います。互いに譲らず激しい戦いだっといいます。

しかし小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、持ちこたえていた大谷芳吉継ら西軍主力も壊滅。秀家隊はなおも持ちこたえますが、家康本体も動き出します。3倍の兵力差に宇喜多隊は壊滅。生き残った秀家は小早川秀秋と刺し違えようとしますが、家臣に説得され苦渋の想いで戦線離脱しました。

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関ケ原のあと

その後、宇喜多家は改易となり領地は没収となります。秀家は伊吹山山中に逃げ込みます。落ち武者狩りをしていた矢野五右衛門に見つかりますが、秀家を不憫に思った五右衛門の家にかくまわれます。

秀家は薩摩国の島津義弘を頼り落ち延びます。薩摩で匿われますが、幕府に知られてしまい。義弘の子の島津忠恒によって幕府に差し出されます。このとき、ともにいた秀家の家臣は島津家に仕官させました。
島津忠恒、前田利長(妻・豪姫の実家)らの助命嘆願により命は助けられた秀家は駿河国久能山に幽閉後、八丈島に流されました。

八丈島では名を浮田久副と名をかえ暮らしました。妻・豪姫の実家、前田家や旧家臣らの援助もありましたが、生活には不自由していたようです。

50年にわたる八丈島での生活のあと明暦元年(1655年)なくなりました。享年84。
徳川家康はもちろん、秀忠、家光もこの世にはなく。4代将軍の時代となっていました。関ケ原の戦いに出た大名の中では最も遅くまで生きました。

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