茶々(淀殿)・豊臣家の滅亡に立ち会った子供想いの強い母

五七の桐
五七の桐

戦国史上、一番有名な女性といってもいいくらい知名度の高い淀君。

父を母の実家に殺されたり、義父と母を自害に追い込んだ者の妻になったり、生涯三度の落城を経験した末、自害しました。

悲劇的な人生を歩んでるんですね。

でもなぜか、悲劇の女性という印象が少ない。
悪女呼ばわりされることもあります。

でも有名なわりに茶々の記録は少ないんですね。
悪女のイメージの多くは江戸時代につくられたものなのです。

淀君は徳川家に最後まで逆らった者です。

江戸幕は女性に三従の精神(女は幼い時は親に、嫁いでは夫に、夫死しては子に従う)を広めようとしていました。そんな江戸幕府にとって女性で権力を持っていた淀君は目障りな存在です。戦国時代の女性は現代人が思っている以上に逞しい人たちだったといいます。だから強い女性は悪女のレッテルを張られてしまったのです。

茶々(淀君・淀殿)とはどんな女性だったのでしょうか。

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茶々はどんな人

淀君?淀殿?どちらが本当?

本名は茶々(ちゃちゃ)。
朝廷から菊子(きくこ)という名前をもらっています。

江戸時代から現代まで、一般には淀君と言われていました。

ところが淀君は悪女の意味が込められた呼びかたという説があります。現在の歴史研究家の間では淀殿と呼ぶのが一般的になっています。

当時の人々は淀の方、淀様、二の丸殿、西の丸殿と呼んでいたといわれます。

江戸時代の大名家の女性の呼び方としては武家では◯◯殿、◯◯方というのが一般的でした。◯◯君(きみ)という呼び方は公家の呼び方です。公家の高貴な人を◯◯君と呼ぶことがあります。ですから君という呼び方そのものは悪い言い方ではありません。れっきとした高貴な人の呼び方なのですから。源氏物語を読んだことのある人ならわかると思います。

ところが江戸幕府や武家社会にどっぷり浸っている人にとって、公家風は軟弱・自分たちとは違う異質な者というイメージがあったようです。

豊臣家は摂関家です。実態は武家ですが形の上では公家なのです。

公家風になった平氏が源氏に滅ぼされたイメージもあったでしょう。

公家風に染まった軟弱な豊臣。それを打倒した源氏の末裔・徳川。そんな対比があったのかもしれません。

つまり、淀君という言葉は悪い呼び方ではないけれど、江戸時代の人々は悪意を込めて使っていた。ということなのです。現代人は気にする必要はないと思います。

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茶々のおいたち

茶々(ちゃちゃ)は永禄12年(1569年)生まれだとされます。

父は近江国の大名・浅井長政(あざい ながまさ)。
母は織田信長の妹・市。

近江国小谷(滋賀県長浜市)で生まれました。

同母妹に初(京極高次 正室)、江(徳川秀忠 正室)がいます。
兄弟に万福腹丸がいます。

天正元年(1582年)、浅井家の居城・小谷城が織田信長に攻められます。父・長政は討死。茶々は母や妹と共に助け出されます。助けたのは藤掛永勝だったともいいます。

万福丸は処刑されました。

その後は、織田信長のもとではなく、他の織田一族の下で暮らしていたといわれます。

信長が本能寺の変で死亡すると、母・市が柴田勝家と再婚。
母と共に、越前国北の庄城(福井県福井市)に移り住みます。

柴田勝家は無骨者でしたが、市とその娘達にはたいそう気を使ったようです。

天正11年(1583年)、北の庄城は羽島秀吉に攻められ落城。
養父・柴田勝家と母・市は亡くなります。

 

天正16年(1588年)ごろ、茶々は秀吉の側室となります。
天正17年(1589年)、捨(鶴松)を出産。秀吉から山城国に淀城(京都市)を送られます。以後、淀の様と呼ばれるようになります。

しかし、鶴松は天正19年(1591年)に亡くなります。
落胆した秀吉は豊臣秀次に関白の座を譲ってしまいました。

文録2年(1593年)、拾(秀頼)を出産します。

秀吉の死後は、自身の乳母である大蔵卿局、その息子の大野長治、饗庭局を従え、豊臣家の実権を握ります。

関ヶ原

慶長5年(1600年)。石田三成、大谷吉継らが挙兵したという知らせを聞くと。淀君は、謀反だと判断。
三奉行と共に、遠征中の徳川家康、安芸国に戻っている毛利輝元に対して謀反を鎮圧するように書状を出します。

その後、石田三成が大坂城に入り毛利輝元を総大将に担ぐと、三奉行もこれを認めます。淀殿は三成の行動を黙認しますが、三成に対する強力はしませんでした。秀頼の出陣や秀頼の名前で家康を討つための書状を出すことは拒否したのです。

関ヶ原の戦いのあと徳川家康が勝つと毛利輝元が大坂城を去り、家康が大坂城で淀殿、秀頼に会いに来ます。このとき、自らの酒盃を家康に与え、秀頼の後見を依頼します。

五大老、奉行が去った大坂城内における淀殿の影響力はますます大きくなります。

しかし、家康は豊臣家が全国の大名家に管理させていた蔵入地を独断で分配。豊臣家の領地は名目上は直轄地の65万石だけになりました。しかし、その後も年貢は大坂城に届けられたため実際の収入は65万石以上あったといいます。

その後、家康は徳川家による支配体制をつくり始めます。
江戸幕府を開き、秀頼を一大名としてあつかおうとします。
これに対し、淀殿は反発を強めます。

慶長10年(1605年)、家康は秀頼に上洛を促し謁見を求めますが淀殿は反対します。

慶長14年(1609年)。家康のすすめもあり方広寺の再建をはじめます。家康としては、豊臣家の財力を消耗させるつもりでした。豊臣家としても秀吉の建てた方広寺大仏殿再建は豊臣家の力を見せ付けるものとして有効だと考え、秀吉が建てたものよりも大きな物を作りました。

慶長16年(1611年)。二条城で秀頼と家康が会います。このときも淀殿は反対しましたが、秀頼が家康に会うことを希望したのでした。

大坂の陣

しかし方広寺大仏殿の式典を巡って問題が発生。責任者の片桐且元が度々家康に説明を行いに行きますが、更に状況は悪くなります。ついに家康は鐘の銘文に問題あり、家康を呪詛する意図があったとして豊臣家を追及します。

淀殿が家康に派遣した大蔵卿局は駿府城で家康と会い、豊臣家に敵意がないことは分かっていると伝えます。淀殿はその返事を受け取り安心しますが。
片桐且元が徳川方との交渉から戻り提案した、「秀頼の駿府、江戸への参勤」「淀殿の江戸に住まわせる」「秀頼が大坂を出て他国へ移る」の案を聞き激怒します。
この案は、豊臣家を、徳川家に従うたんなる大名家としてあつかうことを意味します。天下人の後継者の自覚がある秀頼や淀殿としては、受け入れることはできませんでした。

淀殿の側近達は且元が徳川方に寝返ったのではないかと考えるようになります。身の危険を感じた且元は大坂城を出ることを決意します。秀頼らが説得しますが結局、且元は大坂城を出ました。

淀殿と秀頼は、徳川との戦は避けられないと判断します。

慶長19年10月2日(1614年)。秀頼は諸大名に味方になるよう呼びかけますが、誰も豊臣家に味方するものはいません。浪人を集めて戦の準備を始めます。

慶長19年11月19日。豊臣家と徳川幕府との戦いが始まります。
このとき、淀殿は甲冑を着て武将達を激励しました。

徳川方は大坂城を攻めあぐねていました。家康は和平の使者を送ってきますが、秀頼はこれを拒否。

しかし長期戦を怖れた家康がヨーロッパから取り寄せた新式の大砲による攻撃に切り替えると、大坂城天主にも砲弾が命中するようになります。淀殿の侍女にも死者が出ました。それでも戦を続けようとする秀頼に対して、淀殿は停戦するように訴えます。秀頼も淀殿の意見を受け入れ停戦しました。

和平の条件は、大坂城の堀を埋めることでした。外堀は徳川方、内堀は豊臣方が埋めるはずでした。徳川方は突貫作業で内堀まで埋めてしまいました。

家康は秀頼に対して大坂城からの退去か、浪人を解雇することを要求します。
秀頼は大野治長に使者を送らせて拒否します。

4月9日。徳川方と交渉を担当していた大野治長が大坂城内で浪人に襲撃され怪我をします。
淀殿としては積極的に戦をする意図はなかったといいますが、戦を主張する浪人達を抑えることはできませんでした。

5月6日。幕府軍との戦いがふたたび始まります。
5月7日。幕府軍が城内に突入すると、城内からも裏切るものが出ます。城は放火され略奪が始まりました。大坂城内すら戦場のようなありさまになったため、淀殿と秀頼は米蔵に避難します。そして、毛利勝永らの介錯によって自害しました。

闇夜に大坂城を燃やす炎は夜空を赤く照らし。
京都からも大坂方面が赤くなるのが分かったといいます。

 

淀殿の逸話

戦国一の美女といわれた母・市をもち、茶々も市に似ていたといわれています。当時の女性にしては長身だったという説もあります。息子の秀頼も長身でした。多少の誇張はあるかもしれませんが母子そろって当時としては長身だったのかもしれません。

・醍醐の花見のとき、従姉妹の京極竜子と杯の順番でもめたといいます。当時の位では竜子の方が上でした。竜子が先に盃を受けようとしました。茶々が自分が先だと主張して争ったということです。織田家と浅井家の血を引いているというプライドがあったとも言われています。

・秀頼は秀吉の子ではなく、父親は別だとする説が根強くあります。もっとも有力なのは大野治長です。茶々の乳母は治長の母・大蔵卿局でした。乳兄弟ということになります。しかし秀吉が茶々の生んだ子供を自分の後継者と認めたのは紛れもない事実でした。

実親・浅井長政、義父・柴田勝家、母・市をなくし、父の仇ともいえる豊臣秀吉の妻となり後継者を生みました。当時としては有力者の家でありながら2度の落城を経験。茶々自身も浅井家の血筋に思い入れがあったようです。この経験と血筋が家康に容易に屈しない強さを与えたのでしょう。

実のところ茶々が豊臣家で独裁的な権力を持ち、茶々が豊臣家を滅亡に導いたかどうかは分かりません。悪女のイメージの多くは江戸時代~昭和にかけて女性の地位が低かったころにつくられたものだからです。

茶々は親や子供を大切する意志の強い女性だっただけなのかもしれません。

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