わろてんか・藤岡てん のモデル 吉本せい は吉本興業の創始者

2017年後半のNHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「わろてんか」は吉本興業の創始者・吉本せいをモデルにアレンジが加えられたお話です。

わろてんかのヒロイン・北村てん(藤岡てん)を演じるのは葵わかなさん。

吉本せいについてお話します。

吉本せい(林 せい)

明治22年12月5日(1889年)。林豊次郎の三女として産まれました。

せいが産まれたのは大阪なのか明石なのかは分かっていません。

ただ、せいが物心ついたときには父・林豊次郎は大阪市の天神橋筋からほど近い場所で米穀店を営んでいたようです。

天神橋筋は明治に入り急速に近代化される大阪屈指の商店街でした。天神橋筋は大阪天満宮の門前町として栄えました。そのためこの地域には天満や天満橋という地名も残っています。

せいの実家は大阪天満宮の近く、天神橋から裏手にあたる南同心町にありました。江戸時代には武士が住んでいた町です。でも維新とともに取り壊され町人が住む地域になりました。せいが産まれたときにはすでに天神橋筋は人々でにぎわっていました。そんな賑わいの中でせいは育ったのでした。

兄弟の中でも年長だったせいは、家業の米穀店をよく手伝いました。小学校にあがるころには一人で店番も出来るようになっていました。

豊次郎は明石出身。生粋の大阪人ではありません。それでも大阪の人に溶け込もうとしていました。せい自身も大阪人の言葉や行動を観察し、大阪の人に好かれるように振る舞っていたといいます。

せいは子供の頃から機転の効く頭のいい子供でした。目立ちたがり、自己アピールの強い子供でした。

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北浜の怪物のもとで女中奉公

せいは尋常小学校を卒業すると、米穀商の島徳蔵の店に奉公に出されました。この時代、家に余裕のある商家の娘でも花嫁修業になるからということで奉公に出されることは珍しくアリアませんでした。

島徳蔵はせいの実家と同じ米穀商でしたがスケールは桁違い。大阪株式取引所の理事長も勤める島徳蔵は「北浜の怪物」「大阪の徳蔵」とよばれる大阪経済会の大物でした。

ところが、奉公先での仕事は炊事・洗濯・掃除・子守。実家では接客もやっていたせいには物足りません。ついつい知恵をまわして、言われる前から動いてしまい目立つ存在になってしまいました。決められたことを言われたとおりにするのが女中の仕事と考える先輩の女中は面白くありません。せいは、他の女中からはいじめられることもありました。

ところが、島徳蔵はせいを「賢い気の利く子だ」と気に入っていました。どうやらせいは年上の男性からは好かれるタイプ「おやじキラー」のようですね。おやじキラーは後々自分で商売をするようになると大きな武器になりました。その片鱗が既に芽生えていたのかもしれません。

せいが女中奉公したのは明治33年(1900年)から明治39年(1906年)の間。島徳蔵の店や鴻池でも女中をしました。

あとの話になりますが。昭和に入ると島徳蔵は破産してしまいます。あこぎな商売をしていたため、大勢の恨みを買っていました。企業買収に失敗した後、急速に支持者を失いました。一度の失敗で信用をなくして破産してしまったのです。島徳蔵は事業家としてせいにとっては反面教師にもなったことでしょう。

せいは吉本泰三と結婚

明治40年(1907年)。女中奉公を終えたせいは、結婚しました。18歳のときです。相手は大阪の本町で荒物問屋・箸吉の跡取り息子。吉本泰三です。泰三はせいの3歳年上でした。

商売上のつきあいもあったので親同士が顔見知り。どうやらせいが女中奉公をしている間に、親が決めてしまったようです。だから、せいは泰三と面識があったかどうかはわかりません。この時代、結婚するまで相手の顔を知らないのはよくあることでした。

ところが、泰三は大の遊び人。落後、芝居見物が大好きでした。商家の若旦那が遊び歩くのはよくあることですが。家業をほったらかしにして遊び歩いていました。結婚後も家に戻らず遊び歩くことは当たり前でした。

おまけに姑との関係もギクシャクしていました。顔をあわせば説教され。「あんたがしっかりせんからや」と怒られることもありました。

姑の嫁いびりは撤退していました。店の使用人たちが使う着物の洗濯を一人でやらされたり。せいが奉公していた島徳蔵の店は人使いの荒い店でしたが、女中時代よりも厳しい重労働が待っていました。洗濯物を洗い終わるとたらいの水が血で染まるほどでした。

ところがせいにとって心配だったのは姑問題よりも店の経営でした。

明治40年(1907年)に起きた恐慌が店の経営を直撃していました。倒産寸前にまで追い込まれていました。夫の泰三はよけいに家業に関わらなくなってしまいました。ついには、自分でチャンバラ芝居を立ち上げて地方巡業に出てしまいました。

泰三が留守の間、隠居している泰三の父・吉左衛門が店をみていました。でも、経営は悪くなる一方。

嫁ぎ先が廃業

明治42年(1909年)。市電を通すため元町通の道を拡張することになり。店は立ち退きを命じられました。吉左衛門たちにはもう店をやり直す気はありません。泰三もやる気はありません。荒物問屋・箸吉を廃業してしまいました。

吉本家は大手前通りに転居しました。しかしせいは天満の実家に戻りました。中の悪い姑と一緒には暮らしたくなかったのでしょうか。実家で夫の帰りを待つことになります。

ところが、泰三はその間も芝居の巡業に熱中。廃業の手続きはせいが行うことになりました。家にいるときにも、借金取りの相手をせいに任せるほどでした。いてもいなくてもまったく役に立たない夫。

このころせいは長女を妊娠。ますますつらい日々でした。

夫が奮起・寄席の経営を始める

実家にもどって3年。

明治42年(1912年)。夫の泰三が寄席を経営すると言い出しました。

一般には夫の道楽が止まらないのを見てせいが寄席経営を勧めた。と紹介されることがあります。ところがそうではなさそうです。

この頃のせいは面白おかしく話すのは好きでも芸能のことはまったく分かりません。むしろ夫の道楽には泣かされてきた方です。でも「好きなことなら身入れて仕事してくれるやろ」という思いがあったといわれます。夫がやる気になってるなら応援する。それに賭けてみようと思ったようです。

せいは寄席の開業に必要な資金をなんとか調達しました。土地や建物を買い取ったわけではありません。経営権を買い取っただけです。それでも必要なお金は500円。現代のお金にして140万円ほどです。当時のせいにはこのお金を調達するのも一苦労でした。あちこちから借金して200円用意しました。足りない分は父から借りました。

せいは夫の夢をかなえるため。資金を調達。大阪天満宮からつながる商店街に自分たちの寄席を持つことが出来ました。

興行師として吉本せい・泰三夫婦の挑戦が始まります。