わろてんか:北村藤吉のモデル・吉本泰三(吉兵衛)は遊び人の若旦那

朝ドラ「わろてんか」で松坂桃李演じる北村藤吉。ヒロイン てん の夫になる人です。
てんのモデルになったのが吉本せいなら、北村藤吉のモデルになったのがせいの夫”吉本泰三”でした。

吉本せいを語るときに必ずダメ亭主として登場する吉本泰三。

たしかに今の感覚でみると泰三はダメ亭主です。でも、吉本せいが語る吉本泰三の姿には誇張された部分があるようです。大阪で人気なのが苦労して家を支えた妻と遊び人で妻を泣かせてばかりのダメ亭主。のお話。

そのお約束どおり、典型的な”船場のぼんち(若旦那)”として遊び人ぶりが語られることが多いのです。でも、泰三には単なるダメ亭主ではない興行主としての嗅覚のようなものがあったようです。

北村藤吉のモデルになった吉本泰三についてお話します。

吉本泰三(吉兵衛)とは

吉本泰三は大阪市元町橋詰町にあった荒物問屋・箸吉の跡取り息子です。代々の当主が「吉兵衛」と名のるため。吉兵衛といわれることもあります。

せいの実家からは歩いて30分ほどの距離にありました。吉本家は大阪の船場という場所にありました。船場とは大阪の商業・金融の中心地。豊臣秀吉が大坂城を作った時、商人の町として作られました。横堀川、土佐堀川、長堀川の囲まれたエリア、船場の中心部は御堂筋とよばれます。大阪商人あこがれの場所でした。現在でも大企業のビルが立ち並ぶ大阪屈指のビジネス街です。

せいの実家のあった天満よりも都会的な雰囲気の町でした。

泰三は温厚で人から好かれる性格でした。ところが、泰三は大の遊び人。落後、芝居見物が大好きでした。商家の若旦那が遊び歩くのはよくあることですが。贔屓の落語家や役者を連れて花街で遊ぶこともよくありました。泰三はただの遊び人ではありませんでした。本業の落語家や役者もおどろくほど知識や見識が深く、一目置かれる有名人でした。

家業をほったらかして遊び歩いたからこそそこまでの見識と顔の広さが得られたのかもしれませんが。家族にしてみればたまったものではありません。

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家業が傾く

泰三が遊んでいる間に店の経営がは苦しくなっていました。明治40年(1907年)に起きた恐慌が経営を直撃。何度か不あたりを出しそうなほど危ない状態でした。倒産寸前にまで追い込まれていました。

もともと家業に関心のなかった泰三はよけいに家に近寄らなくなりました。そして自分でチャンバラ芝居を立ち上げて地方巡業に出てしまいました。

泰三がいない間も父・吉左衛門が店を見ていましたが誰も立て直すことは出来ません。

明治42年(1909年)。市電を通すため元町通の道を拡張することになりました。店は立ち退きを命じられました。箸吉は廃業することになりました。この決定を泰三がしたのか、吉左衛門が決めたのかはわかりません。少なくとも泰三にはやる気はありませんでした。

吉本家は大阪城に近い大手前通りに転居しました。泰三は妻・せいの実家に世話になります。
無一文になりましたが、遠慮する様子はありません。妻の実家でも遠慮せずおわかりをしていたといいます。とはいっても、泰三は居候のまま耐えられるほど図太い神経は持っていませんでした。居候の間も何とかしようと考えていたようです。

第二文藝館の経営権を買い取る

明治45年(1912年)。泰三はついに動き出しました。自分で寄席を経営することにしたのです。泰三は、大阪天満宮の裏門付近にある寄席の第二文藝館が経営不振で廃業する話を聞きつけました。この経営権を買収して自分で寄席を経営することにしたのです。
ところが泰三には商人に必要な金銭感覚がありません。お金のめどは立っていません。別居中のの父母にも頼ってみましたが断られました。

結局、資金調達は妻のせいに頼ることになってしまいました。
第二文藝館の買収には300円、運転資金も入れると500円のお金が必要でした。現在の価値では140万円になります。

こうして泰三は夢だった自分の寄席を持つことが出来ました。しかし吉本泰三・せい夫婦の挑戦はこれからなのです。