安藤百福「まんぷく:立花萬平」のモデルはチキンラーメンの開発者

安藤百福はインスタントラーメンを発明し、後の日清食品を作った人です。

NHK朝の連続テレビ小説の「まんぷく」でヒロイン福子の夫・立花萬平のモデルになり注目を集めています。

チキンラーメン、カップヌードルを開発し、世界の食品界に革命を起こしたといわれる安藤百福氏。

とくにチキンラーメンは、会社組織ではなく個人が作った発明品でした。それが今や世界中で食べられているインスタント麺のもとになっています。

そんなインスタント麺を開発した安藤百福の人生についてわかりやすく紹介します。

 安藤百福(あんどう ももふく)とは

名 前:安藤百福(あんどう ももふく)
生 年:明治43年(1910年)
没 年:平成19年1月5日(2007年)
出身:台湾・台南県
父:呉玉
母:呉千緑
妻:安藤仁子
子供 :
安藤宏寿
安藤宏基
堀之内明美

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足腰を鍛えた子供時代

安藤百福は明治43年(1910年)。日本統治時代の台湾・台南県で産まれました。

ハレー彗星の接近が話題になっていた年でした。

立派な福耳をもった赤ん坊でした。両親は「世の中に幸せをもたらす人物になってほしい」そんな願いを込めて「百福」と名付けました。

幼い頃に両親を亡くし祖父母に育てられました。祖父母は呉服店を営んでいました。

高等小学校(現在の中学校)を卒業した百福は祖父の呉服屋を手伝いました。商売が好きになり数字に異常に興味をもつようになりました。

20歳のころ。群守(県知事)に勧められて図書館の司書になりました。

ところが静かな環境があわずに辞めてしまいます。

22歳で商売を始める

昭和7年(1932年)。22歳のころ。メリヤス製品を売る会社「東洋莫大小(トウヨウメリヤス)」を造りました。父が残した遺産を祖父が管理していたので、父の遺産を資金に商売をはじめたのです。

最初は編み物を日本から購入して台湾で売りました。ところがいくら仕入れて売り切れます。そこで翌年には大阪・船場の近くに貿易会社「日東商会」を設立。本格的な貿易業をはじめました。

社長業の傍らに夜学に通い、立命館大学を卒業しました。

昭和18年(1941年)。安藤が台湾主張中に太平洋戦争が始まりました。

戦争で貿易事業を続けることが難しくなったので、幻灯機の製造をはじめました。他にも軍用機エンジン部品の製造、炭焼き、バラック住宅の製造など次々に事業を起こしました。

ところが軍用エンジンの工場で国から支給された資材を横流ししたと疑われ憲兵隊に捕まり拷問を受けます。45日後に釈放されましたが、腸閉塞の後遺症が残りました。

昭和20年(1945年)3月。35歳のとき。仁子と結婚。京都の平安神宮で結婚式をおこないました。

台湾で生まれ育った百福は戦時中は日本国籍でしたが、戦後は台湾(中華民国)国籍になりました。後に日本国籍を取得します。

8月15日。終戦。玉音放送を聞きます。

食べるものがなく栄養失調で亡くなる人を見て、食べ物の大切さに目覚めます。大阪梅田の闇市でラーメン屋台に並ぶ人を見ます。この記憶が後にインスタントラーメン開発のきっかけになりました。

昭和21年(1946年)。泉大津の土地を購入して製塩を始めます。復員して仕事のなかった若者を大勢雇って仕事を与えました。事業というには規模が小さく、働いている若者には小遣いを与えているという感覚でした。

昭和22年(1947年)。名古屋に中華交通技術専門学校を設立。自動車の修理技術や鉄道建設の知識を教えました。佐藤栄作に勧められて作った学校です。

しかし製塩事業で所得税を払ってなかったためGHQから脱税の罪で逮捕されます。いくらかの財産も没収されました。翌年釈放されました。

昭和23年(1948年)。泉大津市に中交総社を設立。魚介の加工販売をはじめました。翌年には「サンシー殖産」に名前を変更しました。

昭和26年(1951年)。信用組合理事長になりました。

もともと安藤には金融の知識がないうえに職員も素人集団。

昭和32年(1957年)。不あたりを出して信用組合が破綻しました。理事長として責任を問われました。信用組合に預けていた資産は凍結され財産を失いました。

今までは事業に失敗してもいくらかの資産は残していました。しかし今回の失敗は大きく残ったのは池田市に借りている借家だけでした。

このときの苦い経験は安藤が日清食品で無借金経営をする原因になりました。

チキンラーメン作り

昭和32年(1957年)。大阪府池田市で借家ぐらしを始めます。何もすることがなくなった安藤はいよいよ終戦後から温めていたアイデアを執行に移します。

自宅でお湯があれば作れるラーメンの開発にとりかかりました。

昭和33年(1958年)。めんを油で上げる方法を開発。世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」が誕生しました。

8月。倉庫を借りてインスタントラーメンの製造をはじめます。

8月25日。「チキンラーメン」の発売をはじめました。

屋号をサンシー殖産から「日清食品」に変更。
社名は「日々清からに豊かな味を作る」という意味。
「日清製粉」「日清オイリオ」「日清紡績」とは関係ありません。

昭和34年(1959年)。初めて新聞広告を出します。チキンラーメンは爆発的に売れました。

昭和35年(1960年)。大阪府高槻市に工場を建設。

早くもチキンラーメンの偽物が出回りました。信じられないことですが堂々と「チキンラーメン」と書いた偽物が出回っていたのです。

真似した方は「チキンラーメン」は普通名詞だから使っても構わないと主張しました。当時は真似をしても悪いことだとは思わなかったのです。

3月。テレビCMを放送を始め知名度を高めました。

昭和36年(1961年)3月。「チキンラーメン」の商標が確定。偽物騒ぎもおさまります。

その後は即席ラーメンの製造法で特許を取りました。

さらに信じられないのが新聞が日清食品に対して「特許をとって独占するのは悪どいやりかた」と報道したことでした。マスコミも知的財産権について遅れていたのです。

昭和39年(1964年)。安藤は業界をまとめて「日本ラーメン工業協会」を設立。初代理事長になりました。企業はお互いの商標や特許争いを尊重することを約束しました。

しかしその後も粗悪品の即席麺は出回り中毒者が出たりしました。インスタントラーメンは体に悪いという悪評を建てられることもありました。

昭和41年(1966年)。欧米視察にでかけます。麺をいれるドンブリがなかったので紙コップで代用しました。お箸の代わりにフォークを使いました。

このときの経験が「カップヌードル」の発明につながります。

昭和44年(1969年)。社内にカップヌードル開発チームを設立。

昭和46年(1971年)。カップヌードル発売開始。

昭和47年(1972年)。浅間山荘事件が起きます。雪山で機動隊がカップヌードルを食べている映像が繰り返し流れ、問い合わせが殺到。

昭和48年(1973年)。アメリカでカップヌードル発売を開始。

昭和50年(1975年)。カップライスを発売開始。しかし売れずに撤退。

昭和56年(1981年)。長男の宏寿に社長職を譲り、会長職になります。

昭和58年(1983年)。経営方針の違いから宏寿が社長を退任。百福が社長を兼任。

昭和60年(1985年)。息子の宏基に社長職を譲り、会長になります。

平成7年(1995年)。阪神・淡路大震災発生。被災者支援のため、会社から救援隊を出しました。

平成13年(2001年)。社内に宇宙食開発チームを作ります。

平成14年(2002年)。日清は宇宙用ラーメン「スペース・ラム」が完成。NASAの許可も出ます。

ところがスペースシャトルコロンビアの爆発事故で打ち上げ延期。

平成17年(2005年)。スペース・ラムは野口飛行士の乗ったスペースシャトルに持ち込まれ宇宙に出ました。

平成19年(2007年)。急性心筋梗塞のため他界。享年96。

安藤百福氏の葬儀では1000インチの画面2つに銀河と星雲が映し出されお経とともにシンセサイザーの音が流れ宇宙をイメージした演出で行われました。

ハレー彗星の年に産まれ、スペース・ラムの開発で宇宙へ飛び出した「故人を宇宙に送りたい」という喪主・宏基のアイデアでした。

転んでもただでは起きない人生

安藤百福氏は「転んでもただでは起きるな」「そのへんの土でもつかんで来い」が口癖でした。失敗と成功を繰り返し、そのたびに経験をみにつけ何度も挫折を乗り越えました。

48歳でチキンラーメンを開発。61歳でカップヌードルを開発しました。95歳で長年の夢だった宇宙にラーメンを届けるという目標を達成しました。

明治生まれらしい頑固さと、子供のような好奇心をもっていました。「人生におそすぎるということはない、60歳、70歳からでも新たな挑戦はある」という言葉を残しました。安藤百福氏の言葉は先の見えない現代でも生きる力を与えてくれうようです。