「べっぴんさん」坂東すみれ(芳根京子)のモデル坂野惇子の生涯

べっぴんさん
坂野惇子

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坂野惇子(ばんの あつこ)は子供服・ベビー用品メーカー・ファミリアの創始者のひとりです。2016年後期朝ドラ「べっぴんさん」のヒロイン。坂東すみれ(芳根 京子)のモデルにもなりました。

 ・NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」公式サイトはこちら

政財界の大物を父にもつお嬢さんでありながら、太平洋戦争の敗戦で生計のためためにはじめたささやかな子供用品店。子供のことを考えた高品質で愛情のこもったものつくりで、日本のベビー用品界に革命を起こりました。大手百貨店が相手でも自分たちのモットーを貫き。惇子達の店”ファミリア”はベビー用品界のトップメーカーに成長します。やがてファミリアは皇族方も愛用されるほどのブランドとして知られるようになります。

このページではそんなファミリアの創業者の一人。坂野惇子の前半生を紹介します。

 

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ファミリア創業者・坂野惇子のおいたち

 

名前:坂野惇子(ばんの あつこ)
旧姓:佐々木(ささき)
生年月日:大正7年4月11日(1918年)
没年:平成17年9月24日(2005)
父:佐々木八十八 (ささき やそはち)
母:佐々木倆子(ささき りょうこ)

 

お嬢様育ちの少女時代

佐々木惇子(坂野惇子)は大正7年(1918年)、レナウンの創始者・佐々木八十八の三女として兵庫県神戸市に生まれました。佐々木八十八は貴族院の議員を務めたこともあり事業家として成功していました。

惇子は昭和6年(1931年)甲南高等女学校(現・甲南女子大学)に入学。在学中に榎並枝津子(田村枝津子)と出会います。枝津子はのちにファミリア創設メンバーのひとりとなります。

昭和10年(1935年)スキーの帰りのバスの中で、将来の夫となる坂野通夫と出会います。惇子のリュックのひもがほどけていたのを通夫が結んだのが縁だったといいます。そのご親交がはじまりますが、お互いの進学のため一時離れ離れになります。

女学校を卒業した惇子は、東京に住んでいた父と姉の勧めもあり東京に移り住み、東京女学館高等科の聴講生となりました。

昭和14年5月(1939年)、惇子は坂野通夫と婚約します。昭和15年結婚。兵庫県神戸市に新居を構えます。通夫は大坂商船(三井商船)で働き始めました。

通夫は肋膜炎を患っていたため、大学を卒業してもすぐには徴兵されませんでした。

昭和17年。長女・光子が誕生します。
昭和18年に通夫は徴兵されます。
昭和19年、夫を戦争にとられ、戦争の悪化したことで惇子は父の所有する軽井沢の別荘に荷物を運びこみ娘をつれて疎開します。しかし、別荘で軽井沢の冬を越すことに不安を覚えた惇子は神戸の家に戻ります。しかし、荷物の移動が制限されていたので手荷物だけで家に戻ってきました。
昭和20年6月の神戸大空襲で神戸市東灘区の自宅が焼けてしまいます。そこで姉が嫁いでいた岡山県勝山町に疎開します。勝山で終戦を迎えました。

戦後の惇子

戦後の日本はひどいインフレに悩まされていました。「預金封鎖」「財産税」「新円の切り替え」が行われます。惇子は預金が引き出せなくなったうえに、財産税が支払いに困ったため京都で暮らしていた父のもとを訪れます。

そのときたまたま父のもとを訪れていた尾上清と会いました。尾上は政治家になった八十八から佐々木営業部(レナウン)を任されており、惇子にとっても兄のような存在でした。

その尾上から「今までとは違うのですよ、もう昔のお嬢さんでは生きていけない。自分の手で仕事をし、自分の手で生きていくべき」といわれ驚きました。尾上の意見に父も賛成しました。

昭和21年。夫の通夫が帰ってきました。兵庫県芦屋にある兄の家を借りて親子三人の生活が始まりました。

苦しい生活が続いていましたが、惇子は家計を助けるために洋裁の仕事を始めました。惇子は女学校時代に洋裁を学んでいました。近所の人たちから依頼が来るようになりました。ところがお嬢様育ちの惇子はお金を請求することができませんでした。近所の人たちもお金ではなく品物を持ってきたので経済的にはあまりよくなりませんでした。

靴が呼びよせた人の縁

父が軽井沢の別荘を引きら払うことになったのでそこにおいていた荷物を取りに来るように連絡がありました。惇子は荷物を引き取りました。この荷物の中にはフランスやイギリス製の糸・毛糸・布地・ハイヒールなど貴重な物がありました。

同じころ友人の村井ミヨ子が結婚せずに手に職をつけたいと思っていたので、惇子に手芸を教えてくれと頼み込んできました。惇子はこれらの糸や布を使ってミヨ子や近所の人を相手に手芸教室を開きました。

昭和23年(1948年)それでも生活は不自由していたので、惇子は別荘から持ち帰ったハイヒールを手放すことにしました。そこで神戸のモトヤ靴店をおとずれて売ってもらえるように依頼しました。しかしそのハイヒールを見たモトヤ靴店店主・元田蓮は驚きました。それは惇子の嫁入り道具として佐々木八十八が発注し元田蓮が作ったものだったのです。元田は佐々木家にも出入りし八十八の人柄を知っていました。「生活に困ってるかもしれないけどそれを売るのはやめていただけませんか」と話す元田。話している間に元田は惇子が持っていたできのいい写真入れや手提げ袋に気が付きました。惇子が作ったものだと知ると靴屋の店の陳列ケースでお手製の品を売ったらどうかと勧めました。

その提案に感激した惇子は手芸店をひらくことを友人の田村枝津子に相談しました。枝津子は義姉の光子も誘い3人で手芸店を出すことに決まりました。

惇子の夫・通夫も惇子の商売に賛成し、仕事の合間に出店に適した空き店舗を見つけてきあました。でも惇子はいまいちその店が気が乗らず、光子が強くモトヤを勧めたため結局提案通り、モトヤ靴店の一角を借りて出店することになりました。また、通夫の意見でせっかく出店するなら手芸店じゃなく赤ちゃんや子供用にかわいいものを作って売ったらどうかと提案しました。惇子はその案に賛成しベビー用品を売ることにしました。

”特別なもの=別嬪さん”をめざして

父・八十八からの他では手に入らない特別な商品を売るようにとのアドバイスもあり。惇子の学んだ西洋式の育児方法も取り入れた赤ちゃんのことを考えて作られたベビー用品を作って売ることになります。特別なものはかつて”別嬪さん”と呼ばれていました。惇子たちは、特別なもの=”べっぴんさん”を作って売る店”ベビーショップ・モトヤ”を開業したのです。その後友人の村井ミヨ子の参加します。3か月かけて商品を作りました。昭和23年12月4日(1948年)、ベビーショップモトヤは開店しました。

 

主婦が始めた店ベビーショップ・モトヤ

ベビーショップ・モトヤは初日から人気でした。惇子が戦前から持っていた高品質な素材や手の込んだ作りもうけて、惇子たちの作った商品は大人気でした。

当時は戦争が終わって4年しかたっていませんでしたが、惇子たちの店があった神戸は急速に復興しており極度の物不足になっていました。そのため高品質な惇子たちの物はよく売れました。

しかし、利益は微々たるものでした。惇子は高価な材料費と手間のかかるコストに見合った価格設定をしてなかったのです。だから品質が高くても安かったといえます。それを知った夫・通夫、美枝子の夫・田村寛次郎、元田蓮が商売の仕方をゼロから教えることになり、惇子たちも売り上げが出せるようになりまいた。

ベビーショップ・モトヤは評判となりお客が増えました。ところが惇子らがお店の部屋を占領してしまうためモトヤ靴店の営業に支障が出るようになりました。元田は空き店舗を見つけては独立してはどうかと進めましたが、惇子たちは元田の店から出ていくのを拒否しました。

元田靴店の隣の店が開くことになりその店を使うことで惇子たちは納得。惇子たちは独立することになりました。

惇子たちは独立・ファミリア誕生

しかもその後、レナウン・サービス・ステーション(レナウンの経営する小売店)が撤退することになり。惇子たちはその土地を譲り受けることになりました。というのもレナウンが店舗を手放すことを聞いた坂野道夫と田村寛次郎が惇子にこの店舗を購入して会社組織にすることを提案。しかも、レナウン

サービス・ステーションの土地は元田蓮だったのでこころよく貸してくれることになりました。惇子たちの会社の大株主にはレナウンの社長・尾上清がなり、土地の費用も事実上、尾上が負担する形になりました。

昭和25年4月(1950年)、株式会社ファミリアが誕生します。ファミリアの初代社長には惇子たちの推薦で独立を提案した元田蓮がなりました。

こうしてベビー用品業界に革命をおこす”ファミリア”は誕生しました。

しかしファミリアは始まったばかり、惇子たちの悪戦苦闘はこれからです。

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朝ドラ「べっぴんさん」との違い

坂野惇子は、旧姓佐々木でした。坂野通夫と結婚し名字が坂野になります。
ドラマでは最初から坂東のまま。田中紀夫が婿養子になって板東紀夫になります。

    結婚前     結婚後
モデル:佐々木惇子 → 坂野惇子
ドラマ:坂東すみれ → 坂東すみれ

そのため、すみれの家族はみんな坂東姓。
父の会社 佐々木営業部は坂東営業部となります。

 

 

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