バヤジット皇子はセリムと争い処刑された

バヤジットはオスマン帝国の皇子。父スレイマン1世はオスマン帝国第10代皇帝。領土を拡張しオスマン帝国の全盛期を築いた皇帝です。母ヒュッレムはオスマン帝国史上最も発言力のあった皇后といわれます。兄弟のセリムと王位争いを行い敗れて処刑になりました。

バヤジット皇子について紹介します。

バヤジットの史実

名前:バヤジット(Bayezid)
地位:オスマン帝国皇子(シェフザーデ:Şehzade)
生年:1525年
没年:1561年
父:スレイマン1世(SüleymanⅠ)
母:ヒュレッム(Hurrult)
妻:ファティマカーキ他
子供:5男4女

1522年。皇帝スレイマン1世と愛妾ヒュッレムとの間に生まれました。同母兄にメフメド、セリム。姉にミフリマーフ。弟にジハンギルがいます。異母兄にムスタファがいます。

ヒュレッムにとっては3男、4人目の子供でした。

オスマン帝国には皇子は成人すると地方の知事になって経験を積む。という習慣がありました。バヤジットはアナトリア地方(トルコのアジア側の半島)の都市キュタヒヤの知事になります。

1553年。スレイマン1世がヨーロッパ遠征するためその間だけエディルネ(トルコ北西部、オスマン帝国の副首都)の知事になりました。この期間にムスタファが処刑になります。

1555年。バルカン半島で「皇子ムスタファ」を名乗る者が反乱を起こしました。反乱は鎮圧されましたが、このときバヤジットの動きが遅かったのでスレイマンはバヤジットが反乱に加担しているのではないかと疑います。このときはヒュッレムがとりなして処分はありませんでした。

ヒュッレムはセリムよりバヤジットの方が次の王にふさわしいと考えていたようです。

セリムとの王位争い

1558年。母ヒュッレムが死亡しました。それまでバヤジットとセリムの争いはヒュッレムが抑えていたので目立ちませんでした。しかし次の皇帝の座を巡り兄弟間の争いは大きくなります。

60代と高齢になったスレイマン1世は息子たちが争わないように首都から遠く放すことにしました。セリムはコンヤにバヤジットはアマスィヤに移動になりました。どちらの都市も首都イスタンブールから遠く離れていますが、距離は同じです。

スレイマン1世の命令に対してセリムはすぐに従いました。バヤジットはかつてムスタファが治めていた街に行くのは屈辱だと父にいいました。しかし皇帝の決定は変わりません、バヤジットは不満に思いつつも命令に従いました。

アマスィヤはかつてムスタファが赴任していた街だったのでスレイマン1世に不満を持つ人がいました。彼らはバヤジットのもとに集まりました。

1559年。スレイマン1世はバヤジットが反乱者なので粛清すると決定。セリムに正規軍を与えてバヤジットを討たせました。バヤジットはセリムと戦いましたが、スレイマンの援助があるセリムには勝てません。敗北したバヤジットはアマスィヤに戻り息子たちを連れてサファビー朝ペルシャに亡命しました。

サファビー帝国に亡命

1559年秋。サファビー朝はバヤジットの到着を歓迎しました。国王タフマースブ1世は歓迎会をひらいてバヤジットをもてなします。しかしオスマン帝国はサファビー朝に圧力をかけます。その圧力に負けてタフマースブ1世はジハンギルを捕らえました。スレイマンとセリムはジハンギルをオスマン帝国に引き渡すように要求します。タフマースブ1世は1年半の間拒否しました。

1561年。オスマン帝国がジハンギルの身柄の引き渡しを金貨40万枚を支払うことで同意。スレイマン1世はジハンギルを捕らえるためサファビー朝に兵を派遣しました。

1561年9月25日。ジハンギルは父スレイマン1世が送った兵によって絞首刑になりました。ジハンギルには5人の息子がいましたが処刑されています。4人の娘は助けられオスマン帝国で結婚しました。