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マヒデブラン・ギュルバハル:息子を失った悲劇の皇帝妃

オスマン帝国国旗

マヒデヴラン(Mahidevran)はオスマン帝国の第10代スルタン(皇帝)スレイマン1世の第1夫人です。

息子のムスタファが王位後継者の有力候補でしたが、陰謀に巻き込まれ命を失ってしまいます。

同じ時代には悪名高いヒュッレム=ロクセラーナがいてライバル関係にありました。

トルコのドラマ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」でもヒュッレムと激しい闘いを繰り広げています。ドラマでは「皇帝妃」と訳されていますが王妃ではありません。婚姻関係は成立していないので側室(妾)あつかいです。

歴史上のマヒデヴランはどのような人物だったのか紹介します。

 

目次

マヒデヴランとは

名前:マヒデヴラン(Mahidevran)
地位:皇帝の第一夫人(Baş Kadın)
別名:ギュルバハル(Gülbahar)
生年:1500年ごろ
没年:1581年
父:Mirza Abdullah Haydar Bey Idar?
母:
夫:スレイマン1世
子供:
長男・ムスタファ(Mustafa)
次男・セゼード(Sehzade)?
長女・ラジエ(Raziye)

皇帝妃になったマヒデヴラン

マヒデヴラン(Mahidevran)はトルコの言葉で「美しい人」、もう一つの名前ギュルバハル(Gülbahar)は「春のバラ」を意味します。

ハレムに入ってスルタン(皇帝)に気に入られると新しい名前を与えられることがあるようです。

マヒデヴランがハレムに来るまでのことはよく分かっていません。アルバニア系、コーカサス系などの説があります。いずれにしてもトルコからロシアの地域にいた民族出身のようです。

アルバニア系の説では、マヒデヴランの本名は「Rosne Pravane」で、アルバニアの裕福な音楽家Mirza Abdullah Haydar Bey Idar の娘だったといわれています。ドラマではこちらの説を採用しています。

出身がコーカサス系だった場合は「Malkhurub Bahar Idarovna」だろうといわれています。

マヒデヴランは14歳でスレイマンのハレムに来ました。スレイマンはまだ皇太子でマニサの知事をしていました。当時のスレイマンのハレムには17人の女性がいました。ハレムの名簿に17人の名前があったというだけで全員がスレイマンと関係をもっていたとは限りません。選ばれるのは一部だと思われます。

1515年に長男ムスタファが産まれました。このときマヒデヴランは16歳だったといわれます。

1520年にスレイマンが皇帝になるとオスマン帝国の首都イスタンブールに移動しました。

1521年。スレイマンにはムスタファの他にも2人の王子がいました。しかし次々と息子を亡くしました。この時点でムスタファが唯一の男子でした。マヒデヴランは唯一の息子の母親として地位を高めました。

マヒデヴランは正式な王妃ではありません。側女でしたが、ハセキ(皇子の母)という高い地位にいました。ドラマ「オスマン帝国外伝」では「皇帝妃」と訳されています。

しかしイスタンブールのハレムにヒュッレムが来ました。ヒュッレムはすぐにスレイマン皇帝の寵愛をうけます。ヒュッレムはマヒデヴランの協力なライバルになりました。

1521。ヒュッレムは王子メフメトを出産。マヒデヴランは唯一の息子の母親としての立場を失いました。

1522年にスレイマンの息子セゼード(Sehzade Abdullah)が産まれましたが3歳で他界しました。セゼードの母はよく分かっていません。マヒデヴランの産んだ子供だたという説があります。またヒュッレムの子供という説もあります。

1525年には娘のラジエ(Raziye)を出産しました。

しかしマヒデヴランとヒュッレムの対立はスレイマンの母親ハフサが抑えていたので表面的にはあまり問題にはなりませんでした。

ハフサの死後、マヒデヴランとヒュッレムの対立は目立つようになります。

ある日マヒデヴランとヒュッレムは口論になりました。ヒュッレムはわざと自分の顔に傷をつけマヒデヴランに傷つけられたようにスレイマンに思わせたといいます。ますますスレイマンはヒュッレムに関心を持つようになりました。

物語では他にも二人が激しく対立している場面が描かれます。その多くは架空のエピソードで正式な記録としては残っていません。

1533年か1534年ごろ。ヒュッレムはスレイマンと正式に結婚ました。しかしマヒデヴランは側女のままでした。

王子ムスタファの悲劇

1533年。息子のムスタファがマニサの知事に任命されました。オスマン帝国の王子は経験を積むために知事になって働くことが期待されていたからです。マヒデヴランはムスタファに同行してマニサに行きました。

1542年。ムスタファはアマスィヤの知事になりました。

ムスタファは王位後継者として期待されていました。兵士や民衆からの人気も高かったようです。

しかしヒュッレムにも息子がいたので後継者争いがおこりました。

大宰相のイブラハム・パシャが失脚してヒュッレムの娘婿のリュステムが宰相になりました。

年老いたスレイマンは人気のあったムスタファに猜疑心をもつようになりました。ヒュッレムや宰相リュステムがそのように仕向けたとも言われます。

1553年。サフアビー朝イランとの戦いの最中にムスタファはスレイマンに呼び出されます。ムスタファがイランと内通して反乱を起こすという噂が流れたようです。

マヒデヴランはそれまで築いた人脈を通してムスタファについての不吉な噂を知りました。どうやらスレイマンがムスタファを殺そうとしているようなのです。マヒデヴランは使者を通してムスタファに伝えました。しかしムスタファは父親が自分を殺そうとしているとは信じませんでした。

ムスタファは、イランとの戦いのため遠征したスレイマンに挨拶しようとスレイマンのテントに向かいました。しかしそこにいたのはスレイマンではなく死刑執行人でした。ムスタファはその場で捕らえられ処刑されてしまいました。

ムスタファは謀反の罪で処刑されたことになっていますが、謀反を企てたという証拠はありません。

ムスタファが処刑された数週間後、ムスタファの子供メフメトも処刑されました。マヒデヴランは孫まで失ってしまいました。

ムスタファ処刑後のマヒデヴラン

ムスタファが処刑された後のマヒデヴランは苦しい生活を送りました。王室から追放され、息子が葬られたブルサの町に行きそこで暮らしました。息子が処刑されたことでマヒデヴランは罪人の母となり、王室から与えられた領地は没収されてしまいました。

マヒデヴランは家賃も払えないほど苦しい生活をおくりました。彼女の召使いは町で罵倒されることもありました。

1558年。マヒデヴランのライバルだったヒュッレムが他界。

スレイマンの治世の終わり頃になってマヒデヴランの生活はようやく改善します。

ヒュッレムが死んだあと。ブルサ城にマヒデヴランの困窮ぶりが伝えられ、それまで滞納していた約10年分の家賃が支払われました。

ブルサの人々はマヒデヴランの生活が苦しいのは知っていたとは思いますが、ヒュッレムが生きている間は表立って訴えることができなかったのでしょう。

マヒデヴランの住んでいる借家はムスタファの異母兄弟セリムが買い取って、マヒデヴランに与えられました。

1566年。スレイマンが死亡。セリムが新しい皇帝になりました。

セリムの時代にはマヒデヴランに年金が与えられました。息子の墓を維持して生きていくのに十分な収入があったといいます。残りの人生は尊厳を持って生きることができるようになりました。

マヒデヴランは1581年に亡くなり、ムスタファと同じ霊廟に葬られました。

スレイマンやライバルよりも長く生きて彼女たちの人生を見届けた後亡くなりました。

 

 

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 息子の処刑は本当に悲劇だったと思います。
    それでも、皇帝よりも、ヒュッレムの子供達全員よりも長生きしたのはすごいなと思います。
    そしてこれだけ長生きできたのは、彼女の中に後ろ暗いところがなく、心が澄んでいたからではないでしょうか。

    ドラマでは主人公であるスレイマンとヒュッレムを際立たせるために、浅はかな部分が強調されていたのが残念でした。
    ドラマでも(おそらく)史実でも、非常に美しい人だったと思います。

    • 板チョコさん、こんにちは。
      そのとおりだと思います。劇中のマヒデヴランの失敗や浅はかな部分はドラマのために作られた部分ですし。援助してくれる人がいたということはそれだけ気の毒に思う人がいたということでしょうね。

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