グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフはエカテリーナ2世の愛人

グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフはロシア女帝エカテリーナ2世の愛人。

エカテリーナのクーデターに参加して中心的な働きをしました。しかしその後、エカテリーナ2世の重臣たちと対立、若いポチョムキンがエカテリーナの寵愛を受けると、オルロフは地位を失いました。

波乱の人生を歩んだグリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフとはどんな人だったのか紹介します。

グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフとは

名前:グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフ(Grigory Grigoryevich Orlov)
地位:ロシア帝国伯爵
生年:1734年10月17日 
没年:1783年4月24日
父:グリゴリー・イヴァノヴィチ・オルロフ
母:ルカリヤ・イワノフナ・ジノヴィエフ
愛人:エカテリーナ2世
妻:エカテリーナ・ニコラエヴナ・ジノヴィエヴァ
子:アレクセイ、ナタリア

グリゴリー・オルロフは1734年。父グリゴリー・イヴァノヴィチ・オルロフはロシア北西部の都市ノヴゴロドの総督。

オルロフはサンクトペテルブルクの士官学校を卒業後、七戦争(1756~1763年)に従軍しました。イギリス・プロイセンとその他のヨーロッパ連合(ロシア含む)の戦いです。

1758年のスォンドルフの戦いで負傷して帰国しました。

1760。砲兵部隊のシュヴァロフの副官として採用されると、舞台でも評判になりました。シュヴァロフの妻クラキナと関係をもったことで異動になりました。サンクトペテルブルクのグレナディア連帯で砲兵将校として働いているとき、エカテリーナ(当時は皇太子妃)と出会いエカテリーナの愛人になります。

エカテリーナのクーデターを成功させる

1762年2月。大尉に昇進。

1762年4月。エカテリーナ2世がアレクセイを出産。彼の父はグレゴリー・オルロフでした。

皇帝ピョートル3世が即位すると貴族たちは不満を持ちます。オルロフが中心になってクーデターを起こし、ピョートル3世を廃位、殺害。エカテリーナ2世が即位しました。

オルロフはその功績で伯爵、工兵総監、首席大将になりました。

エカテリーナ2世はオルロフとの結婚を考えました。しかしパーニン伯爵らの反対にあって断念します。

それでもオルロフの権力は大きく、エカテリーナと共同統治者のようになっていました。フョードル・アレクセーエヴィチ・ヒトロヴォーが暗殺しようとしましたが事前に露見しました。

オルロフは政治家としての資質には欠けていたと言われますが、時事問題にも関心を持ち判断力は優れていたと言います。エカテリーナの顧問として政治に参加。農奴の解放問題にも熱心でした。

学術会議「自由経済協会」の総裁にもなりました。

オスマン帝国からキリスト教徒の解放を主張。1771年にはロシアからフォクシャニ平和会議に派遣されました。しかしオスマン帝国の反対にあい失敗します。失敗したのはパーニンはオルロフが横暴だったからだと批判しました。

パーニンが13歳の親族に手を出したと告発され、エカテリーナ2世の寵愛が冷めていきます。

グレゴリー・オルロフは次第に地位を失い、弟のアレクセイ・オルロフが地位を高めつつありました。

1772年。1年間海外で病気の療養を行いました。

若いグリゴリー・ポチョムキンがエカテリーナ2世の寵愛を集めるとオルロフは地位を失います。

サンクトペテルブルクに戻ったオルロフはエカテリーナ2世に大きなダイヤモンド(オルロフ・ダイヤモンド)を贈りますが寵愛は失ったままでした。

地位を失ったオルロフは外国に移り住みました。

晩年に従妹のエカテリーナ・ニコラエヴナ・ジノヴィエヴァと結婚。彼女との間に子供はいません。

1780年。モスクワに戻り数カ月後に死亡しました。49歳でした。