ポロスはアレキサンダー大王と戦ったインドの王

ポロスは古代インド、インダス川流域にあったパウラヴァ国の王。アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)と戦ったことで知られます。ポロスはアレクサンドロスに敗れはしましたが、アレクサンドロスが最も苦戦した戦いでした。アレクサンドロスはポロスの勇敢さを認め戦う前よりも多くの領地を与えました。

 古代インドのポロス王について紹介します。

ポロスの史実

名前:不明
称号:ポロス(Porus)
地位:パウラヴァ国王
生年:不明
没年:紀元前315~紀元前321年の間。
父:不明
母:不明

日本では弥生時代になります。

ポロスとは部族の王としての称号です。本人の名前は分かっていません。ポロスの記録はインドにはなく、ギリシャの記録にしかありません。そのため彼の正体はよくわかっていません。

ヴェーダ時代にインド北西部パンジャブ地方で暮らしていたプール族の末裔ともいわれます。

ポロスが生きた時代のインドはいくつかの国に分かれていました。インド北部はナンダ朝マガダ国が支配していましたが、インダス川のあたりはいくつかの国に分かれて争っていた時代です。

ポロスの国は現在のインド北西部からパキスタン東部にあったといわれます。インダス川の上流にあるヒュダスペス川(現在のジェーラム川)からアケシネス川(現在のシェナブ川)に広がる地域です。パウラヴァ国と言われることもあります。

インダス川上流には他にはアンビ(タクシレス)王のタキシラ国、アビサレス王のカシミールがありました。とくにポロスはタキシラ国と争っていました。

ギリシャの記録にはポロスの国は騎兵4千、歩兵3万、戦車300,戦像200をもっていました。

ポロス自身も王であると同時に勇猛な戦士でした。身長は5キュビット=約2メートルの大男でした。

アレクサンドロス大王との戦い

パウラヴァ国とタキシラ国が争っていたころ。マケドニア王国のアレキサンドロス王がインダス川流域に遠征してきました。マケドニアはギリシャを統一した後、エジプト、ペルシャを征服しました。そして次の目標がインドでした。

タキシラ国で新しく王になったタクシレスはマケドニア軍に降伏してしまいます。

ポロスはカシミールのアビサレス王と同盟してマケドニア軍と戦うと決断します。ポロスは国境のヒュダスペス川でマケドニア軍を迎え撃つことにしました。

紀元前326年夏。アレクサンドロス率いるマケドニア軍がヒュダスペス川湖畔に到着。すでにアンビやいくつかのインドの部族がアレクサンドロスの味方になっていました。

ポロスと同盟していたアビサレスは領地に引きこもってしまい援軍を送ってきませんでした。

ヒュダスペス河畔の戦い

アレクサンドロスはすぐには川を渡りませんでした。川の反対側にはポロス率いる大軍が待ち構えているからです。アレクサンドロスは毎晩、少しずつ兵を送ってポロス軍を撹乱します。ポロス軍が疲れてきたころ。アレクサンドロスは嵐の夜に一部の精鋭部隊を率いて上流に迂回して川を渡りました。マケドニア軍が川を渡ったことに気がついたポロスは息子の部隊を送りますが、返り討ちにあってしまいます。息子は戦死しました。

ポロスは全部隊を率いてアレキサンドロスの部隊と戦いました。ところがポロス軍は背後からも攻撃を受けます。アレキサンドロスが川の反対側に残していた部隊が川を渡り、背後から襲ってきたのです。挟み撃ちになったポロスの軍は次々に討たれてしまいます。2人の息子や仲間の族長も多くが戦死しました。

しかし次々と兵が倒れてもポロスは戦像に乗って戦い続けました。ポロスの戦いぶりに驚いたアレクサンドロスは「ポロスは死ぬまで戦うつもりだ殺すには惜しい」と考え、ポロスに降伏を勧めます。

アレクサンドロスはアンビを使者に送りました。宿敵が来たことを知ったポロスは、アンビの言葉を無視して槍を投げました。ですがアレクサンドロスは何度も使者を送りました。そしてポロスの古い友人だったメエロスを使者にしてポロスを説得。疲れと渇きで限界にきていたポロスは水を要求。喉を潤したあとアレキサンドロスの元に行きました。

アレキサンドロスはポロスと会い、どのように扱われたいか聞きました。するとポロスは「王は別の王をあつかうように私をあつかいなさい」と言いました。堂々としたその言葉に感銘を受けたアレクサンドロスはポロスを王としてあつかいます。

戦いの後

その後のポロスはギリシャの記録に稀に名前が出るだけでよく分かっていません。

ポロスを降伏させたアレキサンドロスはさらにインダス川周辺の平定に向かいました。ポロスはアレキサンドロスの同盟軍となりヒュパシス川までの戦いに参加しました。またアレキサンドロスの仲介でタクシレスと和解しました。

やがてアレキサンドロスがペルシャのバビロンに戻りました。将兵たちが遠征の疲れとさらに強大なインド軍(マウリヤ朝)との戦いを嫌がったためです。マケドニア兵にとってインド軍との戦いがどれほど大変だったかがわかります。

アレキサンドロスはそれまでのポロスの領土に加えヒュパシス川までの地域を彼に与えました。

アレキサンドロスが帰った後、インダス地域は太守のピリッポスが治めました。しかし紀元前326年にピリッポスが反乱で殺されたため次の太守を決めるまでエウダモスとタクシウスに任せました。

紀元前323年。しかし新しい太守を決めないままアレクサンドロスが死亡。エウダモスとタクシウスがこの地域の支配者になりました。

紀元前321年に帝国の摂政になったアンティパトロスはポロスの領地の支配権を認めました。

紀元前319年。摂政アンティパトロスが病死。すると後継者をめぐってエウメネスとアンティゴノスの間で争いがおこります。

紀元前317年までの間にエウダモスはポロスを殺害してその領地を手に入れました。

紀元前317年。エウメネスに合流するためエウダモスはインドを離れます。

エウダモスはポロスの息子マライア・ケトゥを領主にしましたが、紀元前316年ガビエネの戦いで戦死します。

その後、インドはガンジス川流域から勢力を拡大したマウリア朝のチャンドラグプタが統一しました。

紀元前305年にチャンドラグプタがインダス川付近でマケドニア軍のセレウコス1世と遭遇したときにはポロスの国はなかったようです。

ポロスの正体はパルヴァータカ王

チャンドラグプタの活躍を描いた戯曲にポロスらしき人物が出てくる物語があります。

ムドラー・ラークシャサなどの物語ではチャンドラグプタの同盟者に山岳地帯の王パルヴァータカがいます。

このパルヴァータカがポロスの本当の名前ではないかともいわれます。パルヴァータカはチャンドラグプタの宰相カウティリヤによって暗殺されてしまいます。