金栗実次:弟の可能性を信じて支え続けた金栗四三の兄

金栗実次は金栗四三の兄です。金栗家は酒造業をいとなむ名家でしたが病弱な父の代に家業を畳んでしまいました。

長男の実次は農業で一家を支え、四三たち三人の弟を養うため父の代わりになって働きました。厳しい人でしたが勉強のできる弟の四三に期待をかけて学校に通わせました。

金栗実次とはどんな人だったのでしょうか。

 金栗実次(かなくり さねつぐ)とは

名 前:金栗実次(かなくり さねつぐ)
没 年:昭和5年(1930年)
父:金栗信彦
母:金栗シエ
出身:熊本県玉名郡中林(現在の熊本県和水町:くまもとけんなごみまち)

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一家を支えた大黒柱

金栗実次は熊本県玉名郡中林(現在の熊本県和水町)に産まれました。

金栗家は代々、酒造業を営む名家でした。経済的に豊かな時代もあったのですが四三が生まれた頃は金栗家も厳しくなっていました。

父の信彦が病弱なため酒造業は続けられなくなってきたのです。仕方なく酒屋を閉めて酒造業をやめてしまいました。

金栗家は農業で生計をたてるようになりました。でも病弱な父は十分に働くことができません。そこで一家を支えて農業を頑張ったのが長男の実次です。

実次は母シエとともに家族を養うために働きました。

四三が尋常小学校に通う頃にはすでに実次が金栗家を支えるようになっていました。

幼い頃の四三は父・信彦に似てひ弱でした。でも頭は良かったようです。

そこで実次は「お前は体が強くない、でも頭はいい。おばあちゃん、おかあちゃんに似たからだ。おとうちゃんや俺に似なくてよかった。だから出世できるぞ。勉強は真面目にやれ」と言ったといいます。

実次は自宅の玄関横にある、2畳ほどの部屋を四三に与えて勉強部屋にしました。四三は学校から帰ると毎日勉強に励みました。

実次自身は体には自身はあるが学問はそうでもない。でも弟の四三は体は弱いが頭がいい。だから自分と違って勉強して出世してほしい。と期待していたのでしょう。

このころの金栗家は経済的には余裕がありません。でも実次は勉強のできる四三に期待して、なんとか高等小学校(現在の中学校に相当)に通わせようと働きました。

実次の働きで四三は高等小学校に通うことができました。高等小学校には5.9kmの山道を歩いて通わなければいけません。そのおかげで病弱だった四三は体が鍛えられ後にマラソン選手になる基礎ができたのです。

四三が高等小学校の最高学年になったとき、実次は「四三は優秀なので中学校に進学させてはどうか」と担任教師から勧められました。

金栗家は裕福ではありません。父・信彦は四三が高等小学校を卒業したら農業の働き手として期待していたのです。母・シエも信彦の考え賛成していました。

しかし実次だけは父親に反対しました。四三を中学校(現在の高等学校に相当)に進学させるつもりでした。「四三だけは中学校に進ませたい。俺たちが農作業をして金栗家はしっかり支える。四三には可能性がある。その希望の灯は消したくない」と父親を説得。四三は中学校を受験することになりました。

しかし合格通知が来る前に父信彦は他界しました。「お父さんは体が弱かったが皆に愛される人格者だった。四三、俺達はお父さんの意思をついで金栗家を盛り上げていこう」と四三を励ましました。

四三は中学校に進学しました。普段は寄宿舎で暮らしましたが、週末には家に戻って農業を手伝います。四三は19.7kmも離れた家に走って帰ってきました。

実次は「おう四三、帰ってきたか!」と威勢よく四三を出迎えて一緒に農作業をしました。一緒に農作業をしながら四三を気遣う言葉も忘れません。

学業が優秀だった四三は2年生からは特待生になり授業料が免除になりました。家に帰ってきた四三からその話を聞いた実次は四三の方をたたいて喜び父・信彦の墓に報告しました。

四三は中学校を卒業したら上の学校に進みたいと思うようになりました。そこで実次に進学したいと相談しました。ところがそのころ金栗家では農業で入る収入が減っていました。金栗家には四三を進学させるだけんお金はありません。でも四三の可能性を信じていた実次は進学させてやりたいと思いましtあ。そこで授業料のかからない国費で行ける学校を探すように四三に言いました。

四三は東亜同文書院を受験することにしました。しかしその前に自信をつけるため東京高等師範学校(筑波大学)を受験することにしました。四三は東京高等師範学校に合格します。しかし四三の目標はその次にある東亜同文書院。でも実次東亜同文書院は受かるかどうかわからない、東京高等師範学校に通って教師になってはどうかと勧めます。二人の話し合いは平行線をたどりましたが、最終的には四三が折れ東京高等師範学校に通うことになりました。この東京高等師範学校で四三はマラソンと出会い、ランナーとしての開花します。このときの決断がなければ日本初のオリンピック選手としての四三の名が残ることはなかったでしょう。

やがて四三はオリンピック代表に選ばれます。しかし当時はオリンピックへの理解が低く、遠征費用は自費でした。四三には遠征費用はありません。実次は「お前は金栗家の誇りだ。お金のことは心配するな。田畑を撃ってでも準備するから気にするな。この機会は絶対に生かせ」と励まします。最終的に東京高等師範学校の仲間が遠征資金を集めたため金栗家は田畑を手放さずに住みました。

ところが四三はストックホルムオリンピック大会に出たものの、途中で倒れて棄権してしまいました。

オリンピックの数カ月後。故郷に戻ってきた四三に対して、実次は家族や地元の人々の前で「世間様に申し訳ない。なぜ最後まで走らなかった」と怒鳴りつけました。

四三は家族に対してストックホルムでのいきさつや、次のオリンピックを目指すことを離しました。実次は四三の話をじっと聞いていました。そして「お前は外国で本当にいい経験をしてきたな。それに新たな決意も立派だ。その先は精進如何だ。その努力に対して、俺もできる限り協力する。しっかりやれよ」と励ましました。

その後、四三はアントワープやパリオリンピックに出場。選手としては国際舞台では大きな成果は残せませんでしたが、指導者として日本の陸上競技の発展に貢献しました。

1930年(昭和5年)。実次は急性肺炎で息を引き取りました。