メフメド皇子・皇帝の座を期待されたヒュレムの息子

スポンサーリンク

メフメドはオスマン帝国皇帝スレイマン1世の王子。母はヒュレム妃です。

マヒデブラン妃の息子ムスタファと次の皇帝の座を巡って争いました。もっとも次の皇帝に近いところまできたのですが若くして死亡します。

セリム2世について紹介します。

スポンサーリンク

シェフザーデ・メフメドの史実

名前:メフメド(Mehmed)
地位:オスマン帝国皇子(シェフザーデ:Şehzade)
生年:1521年
没年:1543年
父:スレイマン1世(SüleymanⅠ)
母:ヒュレッム(Hurrult)

子:ヒューマサ・スルタン

1521年。オスマン帝国の首都コンスタンティノープルで産まれました。

父はオスマン帝国10代皇帝スレイマン1世。

母は側女のヒュレム。王子を産んだことでヒュレムはマヒデブランに次ぐ第2夫人の地位を得ました。

スレイマンにはすでに皇子のムスタファがいて皇帝候補と考えられていました。

若い頃のメフメドは兄のムスタファを尊敬して仲もよかったといいます。

しかし母ヒュレムとしてはメフメドを次期皇帝にしようとしていました。本人の意志に関係なくムスタファとの王位継承者争いに巻き込まれます。

1533年。兄ムスタファがマニサの知事になりました。このころはまだムスタファが有力な王位継承者だったようです。

1534年。母のヒュレムがスレイマン1世の法的な妻(皇后)となりました。母の地位が上がったので、ムスタファとの王位継承者争いに有利になりました。

1537年。ドナウ地方での戦いに参戦。作戦は成功しました。

1540年。メフメドに娘が産まれます。ヒューマサ・スルタンです。彼女はメフメドの唯一の子供です。

事実上の皇太子?

1541年。メフメドはマニサの知事になりました。オスマン帝国の皇子は各地で知事になって経験を積むことがもとめられます。首都に近いマニサは有力な皇子が知事を務める街でした。マニサの知事をする皇子=皇太子といってもいいくらいです。

メフメドが知事になる前はマヒデブラン妃の息子ムスタファが知事をつとめていました。しかしスレイマン1世はムスタファをアマーシャという街に異動させ、メフメドをマニサの知事にしました。

スレイマン1世はムスタファよりもメフメドに皇帝の素質があると考えていたといいます。

メフメドはムスタファよりも知性があり判断力が優れいていると評価する歴史家もいます。

1543年。オスマン帝国とハプスブルグ家ハンガリーとの間に戦争が起こりました。メフメドはエステゴルムの戦いに父とともに参戦しました。

しかし同じ年、22歳の若さで死亡します。死因は天然痘だったといわれます。

スレイマン1世はメフメドの死を大変悲しみました。スレイマン1世は有名な建築家ミマール・シナンに命じてコンスタンティノープルにシェザード・モスクを建てました。

メフメドの死後、娘のヒューマサは祖母ヒュレムに引き取られコンスタンティノープルで暮らしました。

暗殺された?

しかしメフメドの試飲については別の説もあります。

メフメドはムスタファと次期皇帝の座を争っていました。そこでムスタファの母マヒデヴラン妃がメフメドの暗殺を計画したともいわれます。しかし証拠はありません。

もしメフメドが生きていれば皇帝になったでしょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました