「べっぴんさん」ファミリアの田村光子は高西悦子と小野明美のモデル?

べっぴんさん

ファミリアの創業者のひとり田村光子。創業者4人の中では最年長でお姉さん的立ち存在でした。父は繊維専門商社田村駒の創業者・田村駒治郎。優れた決断力と判断力で商業以来坂野惇子をサポートしてきました。洋裁が得意でファミリアの制帽部門の責任者も務めています。

連続テレビ小説「べっぴんさん」では直接モデルになったキャラクターはいないのですが。高西悦子と小野明美に田村光子のエッセンスが盛り込まれているようです。

 

田村光子とはどんな人だったのか紹介します。

 

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 田村光子とはどんな人?

名前:田村光子(たむら みつこ)
生年:明治40年(1907年)1月
没年:平成7年(1995年)
生誕地:大阪府大阪市
父:田村駒治郎
  神田屋田村商店(後の繊維専門商社田村駒)の創業者
母:田村フク

田村光子は田村駒治郎の長女として生まれました。

神戸大阪の洋裁の世界では有名だった木川章子の一番弟子として洋裁を学び、ファッションセンスを磨きました。

田村家は商家でしたが、光子は商売の仕方は教えてはもらってません。そのかわり、父から「安いからといっていい加減なものは買うな。すぐに飽きる。高くてもいいものを買え」と消費者としての心構えを教わりました。その価値観はのちに高品質なものを作るファミリアの活動に活かされます。

昭和4年(1929年)。安田信託銀行に勤める飯田陽と結婚しました。陽が婿養子となりました。
4人の子供が生まれます。
太平洋戦争中に兵庫県神戸市の自宅を空襲で失います。
光子は夫、子供とともに兵庫県西宮市にある兄の自宅に疎開しました。

戦後、光子は木川章子に学んだ洋裁の腕を生かして、ブラウスを縫うなどの仕事を始めました。

ベビーショップの開店

義妹の田村江つ子が、坂野惇子と共に訪ねてきました。手芸店を開くというので相談に来たのです。

光子は引き受けることにしました。夫の陽も賛成しました。
田村光子、坂野惇子、田村江つ子の3人は7万円ずつお金を出し合い、21万円の資金をもとに開業することにしました。

お嬢様育ちで商売に疎い惇子と江つ子に対し、光子は決断力がありました。

場所を決定

惇子はモトヤ靴店での開店を考えていましたが、創業の話を聞いた惇子の夫・通夫が空き店舗を探してきました。惇子は悩んでいました。そこで光子がモトヤ靴店で開くことを決定しました。「知り合いの元田氏の店で開業した方がなにかと相談しやすいから」というのがその理由ですが、光子にはモトヤ靴店の方が成功するという勘のようなものがあったといいます。

ファミリアの発展

ファミリア店の名前を決める時も、ベビーショップ神戸という名前が候補に挙がっていました。でも光子は地域に限定するような名前はやめてもっとスケールの大きな名前を考えることを提案します。惇子と江つ子は賛成しました。惇子は外国人の知人から聞いたファミリアという名前を提案してきました。光子は「ア」で終わる名前は縁起がいいと賛成し、ファミリアに決定しました。

色彩感覚を学ぶため、赤へい社女子絵画研究所に通い、油絵を学びました。

洋裁が得意な光子は縫製を担当。ベビーショップモトヤ時代から、自宅にミシン、アイロン、裁断台をおいて自宅を製造場所にしました。

ファミリアらしさを残した生産方法の改善

ファミリアの製品が売れると生産が追い付かなくなります。成長するファミリアにとっては頭の痛い問題でした。惇子は松方真を招いて生産ラインの改善をアドバイスしてもらうことになりました。松方はアメリカ流の生産方式を学んでいたからです。

でも光子はアメリカ式の大量生産システムに疑問を持ちました。確かに生産効率はいいのですが、同じものばかりでファミリアらしさが失われているようでした。

そこで光子は、松方の勧める方式とそれまでのファミリアの方式を組み合わせた製造方法にしました。ファミリアらしさを失わなずに生産効率をあげることができました。ファミリアが高い品質のものを提供し続けることができるのは光子の存在が大きかったのです。

外回りも担当

光子は製造部門を仕切っていました。でもときおり惇子と共に外出することがありました。営業は惇子の担当でしたが、重要な場面では光子のサポートがありましました。

阪急に出店

阪急百貨店に商品を卸すときも、阪急側が「ファミリア」のロゴを外して「阪急特選」のロゴを入れるように要求してきました。できたばかりの店としてはそれでも名誉なことでしたが、自分たちのブランドを大切にする惇子はそれを拒否。光子も大蔵陶園(皇室御用達の食器メーカー)を引き合いに出してブランドを外して阪急のマークを入れさせるのかと拒否。後に語り草となるこの名言?は同席した坂野通夫を冷や冷やさせると共に、交渉にあたった阪急の鳥居正一郎をあきれさせました。

しかし鳥居は怒って断るわるわけにはいきませんでした。阪急百貨店のトップ・清水雅からファミリアの品を仕入れるように命令されているからです。鳥居は「阪急ファミリアグループ」という妥協案を出しました。光子と惇子もこれには納得しました。

伊勢丹にダメ出し

伊勢丹に出店したときも、惇子と共に売り場をチェック。展示の仕方や商品の配置の仕方、照明の当て方を細かく指摘しました。後に伊勢丹、松屋、東武百貨店の経営を立て直しミスター百貨店といわれる山中 鏆が若いころに出会ったのが惇子たちでした。「売り場を嘗め回すように見る光子が怖かった」と回想しているほどです。物つくりだけでなく売り方に対しても妥協を許しませんでした。

また、坂野通夫が社長を引き受けるきっかけになったとも言われる食器2万個発注事件でも、惇子と光子が業者を見に行って独断で決めたものでした。

引退

昭和52年(1977年)。田村光子は専務取締役を退任。名誉顧問となりました。経営からの引退です。専務取締役と生産部門の責任者は光子の次男・田村友彦がなりました。

平成7年10月(1995年)。阪神淡路大震災の年。亡くなります。享年88。

 

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「べっぴんさん」に田村光子をモデルにした人はいるの?

光子はファミリアの創業者4人の中の一人です。でも「べっぴんさん」では田村光子を直接モデルにした人物は登場しません。

でも部分的に田村光子のエッセンスを取り入れたキャラクターはいます。

小野明美

キアリス創業者4人の一人。お嬢様育ちで考えの甘い他の3人に対して厳しい態度で接します。

田村光子はファミリアの操業者4人の中で最年長。品質にも売り方にも厳しく責任感のある人でした。

仕事に厳しく容赦なく言いたいことをいう姿勢は光子と共通するものがあります。

ドラマでは小野明美は小澤良子に対しても厳しいことを言っていますよね。小澤良子のモデルになった田村江つ子と田村光子は義理の姉妹でした。江つ子にとって光子は小姑だったんです。明美と良子のやりとりは光子と江つ子、つまり小姑と嫁の関係を連想させます。

3人が仲良しグループ的なまとまりがあるのにたいして、ちょっと離れた立場から見ている感じも共通します。

 

高西悦子

すみれの女学校時代の同級生ですが、女学生のリーダー的な存在。まわりの女学生から「悦子さま」と呼ばれています。
戦争で家と夫を失いキャバレーで働きます。オライオンのファッションショーのモデルになり。のちにキアリスに参加。百貨店での販売を担当します。

キャバレーの接客経験と話術を生かして店頭での販売で活躍する設定です。キアリスを販売面から支えていく存在になるようです。

田村光子はキャバレーで働いたことはありません。
女性がターゲットの朝ドラでは、製造部門の責任者ではいまいちピンときませんよね。それよりも販売やお客さんの相手をする方が分かりやすいですよね。そんなキャラクターとして設定されたのが高西悦子だと思います。

同年代の設定なのに、すみれ達より姉貴分な雰囲気があるのは田村光子をイメージしているのかもしれません。百貨店への出店のときには光子も販売をサポートしています。そんな部分が高西悦子というキャラクターに含まれてるのかもしれませんね。

 

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田村光子の息子・友彦はファミリアに入社

 

田村美津子には友彦という息子がいました。友彦は早稲田大学を卒業後、ダイハツ工業の研究室で働いていました。

昭和46年5月(1971)。坂野惇子の娘・岡崎光子(てるこ)にすすめられてファミリアに入社します。その2か月後には昭和46年7月(1971)岡崎光子の夫・岡崎晴彦がファミリアに入社します。この時期、創業者の次の世代の人々が入社するのですが、ひと騒動ありました。ドラマでもその騒動をもとにしたエピソードが放送されるようです。

 ・坂東さくら入社のエピソードは岡崎晴彦のファミリア入社の経緯から

ファミリアに入社した友彦はやがて田村光子のあとをついで製造部門の責任者になりました。

ドラマでは村田君江が製造部門の所長となり、その息子・健太郎が入社します。

田村友彦と似たようなポジションにいるのがドラマでは村田健太郎になるんですね。

 

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