リュメイサ・ハトゥン:ムスタファ皇子に最も愛されハレムを支配した女性

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リュメイサ・ハトゥンはオスマン帝国のムスタファ皇子の妻。生母のマヒデブランを除けば、ムスタファのハレムで最も権力のあった女性といわれます。

リュメイサ・ハトゥンについて紹介します。

リュメイサ・ハトゥンの史実

名前:リュメイサ・ディレフルス(Rümeysa Dilefruz)
本名:ナディア・フランコス(Nadia Frankos)
出身:ボスニア
地位:オスマン帝国皇太子妃
生年:1516年
没年:1603年
父:ヨセフ・フランコス
母:不明
夫:ムスタファ皇子
子供:
メフメド皇子(1547-1553)
アイシャ皇女
アフメド皇子(1552-1553)

1516年。オスマン帝国領のボスニア(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)で生まれました。

本名はナディア・フランコス。名前から判断するとキリスト教徒だったようです。

父はボスニアの画家ヨセフ・フランコス。

1528年。12歳でハレムに来ました。ヒュッレム達と同様に奴隷として売られてきたようです。

ハレムに入ったナディアはイスラム教に改宗してリュメイサ・ディレフルス(Rümeysa Dilefruz)というムスリム名を与えられました。

1533年にムスタファ皇子がマニサの知事になりました。皇子は独立すると自分のハレムを持つことができます。リュメイサはムスタファのハレムの一員になりました。

リュメイサは美しさと頭の良さでハレムでも目立つ存在だったようです。ムスタファ皇子の心をつかみました。ムスタファのハレムにはファトマ、ヌルチハン、アイシェがいてライバル関係にあったようですが、むるスタファのハレムで最も権力をもっていたのがリュメイサでした。

1541年。ムスタファがアマスヤの知事になりました。彼女たちもアマスヤに移ります。

1547年。メフメド皇子が生まれました。リュメイサは皇子の母となりました。

生年は不明ですがアイシャ皇女が生まれました。ところが幼くして死亡しました。

1549年。ムスタファがコンヤの知事になりました。彼女たちもコンヤに移ります。

1552年。アフメド(オルハンという説もあります)が生まれました。二人の皇子の母としてムスタファのハレムでは大きな影響力を持ちました。皇子を生んだので「ハセキ」の称号が付けられ、ムスタファの正妻になりました。

しかしアフメドは1553年までに幼くして死亡したようです。

ムスタファの処刑後

1553年10月に夫のムスタファ皇子が処刑されてしまいます。リュメイサは子どもたちを連れてムスタファの母マヒデブランや他の側女や子どもたちとともにブルサに移動しました。

ところがムスタファの息子は全て処刑されることになりました。1553年12月にはメフメドも処刑されてしまいました。

その後、リュメイサはイズミールの旧宮殿に移され死ぬまでここで暮らしました。

彼女は非常に尊敬され「カディンネフェンディ」という称号で呼ばれました。

1603年にイズミールで亡くなりました。

また1555年に死亡したという説もあります。一緒に暮らしていた他の側室と間違われているのかもしれません。

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