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セリム2世:ヒュレッムの息子はダメ皇帝だった?

オスマン帝国国旗

セリム2世はオスマン帝国の第11第皇帝です。

オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレムではセリム皇子として登場します。

父はオスマン帝国第10代皇帝 スレイマン1世。
母はヒュッレム・ハセキスルタン。オスマン帝国史上最も発言力のあった皇后といわれます。

セリム2世について紹介します。

目次

セリム2世の史実

名前:セリム2世(Selim II)
地位:オスマン帝国皇子(シェフザーデ:Şehzade)→皇帝
生年:1524年
没年:1574年
在位:1566-1574年
父:スレイマン1世(SüleymanⅠ)
母:ヒュレッム(Hurrem)
妻:ヌールバーヌ
子供:ムラト3世他。

日本では戦国時代。武田信玄(1521~1573年)と同世代です。

1524年。オスマン帝国の首都コンスタンチノープル(現在のトルコの首都イスタンブール)で生まれました。

父は皇帝スレイマン1世。母はヒュッレム。ヒュレッムにとってはメフメド皇子、ミフリマーフ皇女に次ぐ3人目の子供でした。

名前のセリム(selim)は祖父セリム1世から名付けられました。

1533~34年ごろ。母ヒュッレムが正式にスレイマン1世と結婚。皇后になります。

1545年。21歳ごろ。ヴェネツィア貴族の娘チェチーリア・ヴェニエル=バッフォと結婚しました。

1553年。オスマン帝国とサファビー朝ペルシャとの戦争中に異母兄ムスタファ皇子が処刑されました。王位継承争いはセリムと同母弟バヤジットに絞られました。

1554年。サファビー朝ペルシャとの戦に出陣しました。アナトリア出身の兵士をひきつれ右翼の指揮官を勤めました。

セリムは常備歩兵軍イエニチェリの兵士から支持を集めていました。

しかし母ヒュレムは弟のバヤジットを次の皇帝にしようと考えていたようです。というのもセリムは酒飲みで怠慢だったので、バヤジットの方が有能だと思われていたからでした。

ヒュレムが生きている間は、セリムとバヤジットの間にはめだった争いは起こりませんでした。二人が争わないようにヒュレムが気を使っていたからです。

しかし1558年にヒュレムが死亡すると二人は側近を巻き込んで争いをはじめました。

セリムの家庭教師をしていたララ・ムスタファ・パシャはセリムを皇帝にするために暗躍します。ララ・ムスタファ・パシャは、偽の書簡を使ってバヤジットがスレイマン1世の信頼を失うようにしむけました。

スレイマン1世はセリムの任地を今夜からキュタヒヤに変え、バヤジットをアマスィヤに変えました。

1559年。バヤジットはアマスィヤへの移動を断って挙兵。バヤジットのもとに2万の兵が集まりました。

しかし大宰相ソコルル・メフメト・パシャの率いる正規軍がセリムに合流。コンヤ付近の戦いでセリムはバヤジットに勝利しました。

バヤジットとその子供はサファビー朝に亡命しました。しかしスレイマンとセリムはバヤジットの処刑を要求。サファビー朝はスレイマンの要求通り、バヤジットとその子供を処刑しました。

皇位継承者になる

以後、セリムはスレイマン1世に逆らうことなく過ごして皇位継承者になりました。

1566年。スレイマン1世がハンガリー遠征中に陣中で病没しました。大宰相のソコルル・メフメト・パシャはスレイマン1世の死を隠しました。

キュタヒヤにいたセリムはソコルル・メフメト・パシャに呼び出されてベオグラード付近で正規軍と合流。父スレイマン1世が亡くなったことを知らされました。

ところがスレイマン1世の死を知った兵士たちは金をよこすように騒ぎ出しました。バヤジットとの争いで資金を使い果たしていたセリムは姉のミフリマーフに借金して金を用意。兵士たちに金を配りました。その後も兵士たちは金を要求しましたが大宰相のソコルルが首謀者を斬首して騒ぎは収まりました。

コンスタンチノープルに戻ったセリムは即位式を済ませ。正式に皇帝になりました。

なお、歴史上は皇帝になる前のセリムはシェフザーデ・セリム(セリム皇子)。即位したあとはセリム2世と呼ばれます。

セリム2世時代のオスマン帝国

セリム2世は皇帝になりましたが、政治には関心をみせず宰相達にまかせていました。政治の大部分は大宰相ソコルル・メフメト・パシャがひきつづき行いました。

セリム2世の時代、神聖ローマ帝国との和平が実現。モルダヴィアとワラキアがオスマン帝国のものになり、神聖ローマ帝国は毎年30000ドゥカートの貢物をおこなうことになりました。

フランズ王シャルル9世に優遇処置を与え、オスマン帝国内に暮らすフランス人に税が軽くなるなどの特権を与えました。これは大国オスマン帝国が小国フランスを保護するという意味があります。スレイマン1世時代に行われたのが最初だと言われていましたが、確実な資料でわかるのはセリム2世の時代が最初です。

ロシアとの争い

オスマン帝国は西ヨーロッパ相手には有利な立場にいましたが、ロシア相手には苦戦しました。

1569年。ロシア南部のアストラハンに運河を建設しようとアストラハンに向かったオスマン帝国軍はモスクワ大公国軍の抵抗にあって敗退。翌年、モスクワ大公イワン4世の使者がオスマン帝国にやってきて和平が結ばれました。

セリム2世の時代はまだオスマン帝国の力が強くモスクワ大公国は防戦一方でした。ところが、モスクワ大公国からロシア帝国へとかわって力を付けていくのに対し。オスマン帝国は徐々に衰退します。

後の時代にはオスマン帝国とロシア帝国は戦いを繰り返し、オスマン帝国軍は領土を奪われることになります。

その最初の戦いがセリム2世の時代におきたのでした。

キプロス遠征

政治の多くを大臣に任せていたセリム2世でしたが珍しく遠征を計画したことがあります・

ベネツィアが所有権をもっていたキプロス島の占領計画です。ベネツィアはキプロス島の所有権を認めて貰う代わりにオスマン帝国に毎年10,000ドゥカートを支払っていました。

一方で、ヴェネツィアの船団はオスマン帝国の船を襲って略奪をおこなっていました。その基地になっていたのがキプロス島だったのです。

ソコルル・メフメト・パシャはキプロス遠征に反対しましたが、セリム2世は、キプロス遠征を決定しました。

1571年。オスマン帝国軍はキプロスを包囲。占領しました。遠征軍の司令官になったのはセリム2世の側近ララ・ムスタファ・パシャ。

これに対してカトリック教国は協力して援軍を送りました。

1571年10月。レパントの海戦でオスマン帝国軍はカトリック教国連合に敗退。オスマン帝国艦隊を指揮していたアリ・パシャは戦死しました。ヨーロッパ諸国がオスマン帝国に大勝利した戦いとして話題になりました。

しかしカトリック教国連合の意思疎通がうまくいかず、キプロス島奪回まではできませんでした。

大宰相ソコルル・メフメト・パシャはただちに失った艦隊の再建を行いました。1572年には250隻の大艦隊を出撃させベネツィアに圧力をかけます。ベネツィアはオスマン帝国に賠償金を支払い、キプロス島の支配権はオスマン帝国のものになりました。

 

このようにセリム2世はときどき政治に口をだすものの、多くは大宰相達によっておこなわれていました。セリム2世 自身はトプカプ宮殿とエディルネの狩の場で暮らしました。

1574年。セリム2世はワインを一瓶飲み干したあと、新築の浴場で転んでしまい、頭を打ち付けました。そして11日後に死亡しました。

セリム2世の死後、息子のムラトが即位。
12代皇帝ムラト3世になりました。

しかしムラト3世もハレムに入り浸って政治を疎かにする皇帝でした。スレイマンが築いた帝国は、セリム2世、ムラト3世の時代に衰退にむかい始めます。

姉ミフリマーフがヴァリデスルタンになる

セリム2世の母は既に他界していました。セリムには母后(ヴァリデスルタン)がいません。そこで姉のミフリマーフが母后になってハレムを仕切りました。

マヒデブランとのかかわり

政治には関心をみせなかったセリム2世ですが、意外なことに母ヒュレムのライバル、マヒデブランの生活を助けました。

ムスタファ皇子が処刑されたあと、マヒデブランは宮殿を追放され苦しい生活をしていました。借家に住み借金をしてなんとか生きていました。領主からマヒデブランが家賃を払えないでいるという報告を受けたセリムは、マヒデブランの借金を返済しました。年金を支給してマヒデブランが暮らせるようにしました。また後継者争いで処刑されたムスタファの墓を建てています。マヒデブランはムスタファの墓を守りながら暮らしました。

優秀な大臣に支えられた遊び人の皇帝

オスマン帝国はセリム2世の時代も領土を広げましたが、セリム2世は一度も遠征に出ていません。大宰相たちが行っていました。スレイマン1世の残した大臣たちが優秀だったため、セリム2世が遊んでいてもオスマン帝国の経営はうまくいってたのでした。

どの時代も国ができるまではカリスマ的な皇帝や王がいるものですが、国が安定すると官僚たちが国を経営するようになります。オスマン帝国もそのような時代にはいったのでしょう。

しかしセリム2世の時代は優秀な大臣がいたためよかったのです。でもセリム2世の死後、オスマン帝国は徐々に衰退へと向かいます。

 

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