豊臣秀頼・家康が最後まで恐れた男は大坂城と共に滅んだ

五七の桐
五七の桐

大坂の陣で亡くなった豊臣秀頼。

一般的には豊臣秀吉の後継者となりながら、母親のいいなりになってる無能で頼りない人物っていわれてます。

有名な人物のわりに資料も少なくて、いまだに研究が進んでないんですね。江戸時代に書かれた資料は徳川の視点で作られているのでどこまでが本当かわりません。だから歴史研究家からも憶測で語られることの多い人物です。

あいまいな秀頼像について少ない資料から調べてみました。

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豊臣秀頼とはどんな人?

生年:文禄2年8月3日(1593年)。
生誕地:大坂城。
父:豊臣秀吉。
母:茶々(淀殿)。
幼名:拾
通称:藤吉郎。

秀頼が本当に秀吉の実子なのかという疑問は当時からあったようです。秀吉自身も子供はできないと諦めたあとの誕生でした。でも秀吉は拾を自分の子として認め、溺愛したのは事実です。豊臣家を継く秀吉の後継者なのは間違いありません。

当時、拾った子はよく育つと信じられていたので拾(ひろい)と名づけられました。秀吉にとっては天からの贈りもののように思えたことでしょう。

拾が生まれて2ヵ月後には秀次の娘と婚約。

秀吉は異常なまでに拾を溺愛しました。当時、秀吉は伏見で暮らしていましたが大坂にいる拾にまめに手紙を書いています。赤子の拾に意味が理解できるわけはありませんが(淀殿が読んで聞かせたのでしょう)、とにかく拾のことが忘れられない様子でした。

文禄5年9月(1596年)。拾は元服して 豊臣 藤吉郎 秀頼となりました。
五大老、五奉行が整えられ秀頼を補佐する仕組みが作られます。

慶長2年(1597年)。伏見城(木幡伏見城)が完成すると秀吉は伏見城に移り住みます。
慶長3年3月(1597年)。秀頼も伏見城に移り秀吉とともに暮らします。
慶長3年8月18日(1598年)。秀吉が亡くなります。
慶長4年正月(1598年)。秀吉の遺言により秀頼は大坂城に移ります。
秀吉亡きあと、秀頼の最大の支援者だった前田利家が3月に亡くなります。
徳川家康は次第に影響力を強め、五大老、五奉行と対立が深まりました。

関ケ原から大阪の陣までの豊臣秀頼

慶長5年(1600年)。秀頼7歳のとき、徳川家康に対して石田三成らが挙兵。日本各地で戦いが行われました。この戦いは徳川家康も石田三成もどちらも秀頼の家臣として軍を動かしています。関ヶ原の戦いは豊臣対徳川の戦いではなく、豊臣政権内の派閥争の形だったのですね。

三成は秀頼に出陣を求めましたが、淀殿は拒否しました。淀殿からすれば三成と家康の戦いは家臣同士の派閥争い。秀頼をどちらかに加担させるわけにはいかないのです。

勝った徳川家康に対して、秀頼は忠義者としての言葉を送りました。

関ヶ原の戦い後、豊臣の衰退が始まる

しかし家康は大老トップの座を生かして戦後処理を独占的に進めていきます。敵対した大名を取り潰したり、縮小しました。家康に味方した大名でも豊臣家に近いと思えるものは大阪から離れた西国に移しました。豊臣家を孤立させたのです。さらに豊臣家の領地の削減を行います。

豊臣家220万石のうち、日本各地に分散し大名家に管理を委託していた領地を取り上げます。豊臣家の領地は直轄地の摂津・河内・和泉の65万になってしまいました。
しかし家康の命令にもかかわらず、削減されたはずの領地から豊臣家に年貢が送られていました。豊臣家の影響力はそれほど強かったということなのでしょう。

慶長5年(1603年)。徳川家康が征夷大将軍になります。名実ともに徳川家が武家の頂点に立ちました。

慶長5年7月。秀頼のもとへ徳川秀忠の娘、千姫が嫁いで来ました。秀吉が家康と交わしていた約束でした。この時点では家康は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったようです。

公家のトップとしての豊臣家

豊臣家は武家の頂点ではなくなりましたが、依然として公家の頂点・5摂家のひとつとして影響力を保っていました。摂家とは摂政・関白になれる家柄のことです。公家はいくつもありましたが。摂家とよばれるのは5つだけでした。

年始の挨拶には多くの公家が訪れ。朝廷からは秀吉存命中と同じような扱いを受けていました。豊臣家も家臣に独自に位を授けたり、知行を割り当てたりするなど、江戸幕府とは違った動きをしていました。

大名もことあるごとに秀頼への挨拶を行います。秀頼は日本各地の寺社の修復を行い豊臣家の存在感を示していました。家康も方広寺の修復を勧めるなど、むしろ積極的に認めていました。豊臣家が財力を使い果たせば弱体化すると考えていたのでした。

しかし、豊臣家の財力はなかなか衰えません。
大坂夏の陣のあと幕府が没収した豊臣家の資産は金28万両、銀24万両。もう一度、大坂の陣級の大きな戦争を行うことができるほど蓄えていました。

慶長10年(1605年)。秀頼12歳のとき。右大臣になりました。家康は秀頼に上洛して会うように求めます。秀頼のほうから会いに行くことは秀頼が家康に服従することを意味します。このときは淀殿が反対して実現しませんでした。

転換点となった二条城会見

慶長16年(1611年)。秀頼18歳のとき、家康は再び秀頼に上洛を求めます。このときも淀殿が反対しました。秀頼はその反対を押しのけ「千姫の祖父に会いに行く」という名目で上洛します。加藤清正と浅野幸長が秀頼を迎えに来ました。

このとき加藤清正と浅野幸長は徳川家の家臣になっていました。秀頼を担いで徳川家に反乱を起こす意図はありません。豊臣家を残すために家康と秀頼の仲を仲介しようとしていたのでした。

秀頼は天下人になる夢を諦めたわけではありません。でも、ここでことを荒立てるつもりはありませんでした。会見の場では秀頼は常に家康をたてて礼儀正しく対応しました。まだ若いのですから家康が死ぬのを待てばいいのです。

でも、家康は目の前に現れた秀頼を見て心中穏やかではなかったようです。秀頼の身長は当時としては巨体といえる190cmもあったいわれています。誇張はあったとしても当時としては長身だったようです。

家康は「たいへん賢い人なので、臣下となって命令に従うような人物ではない」と考えたようです。

家康は今までみたいに豊臣家に独自の活動をさせておくわけにはいかないと考えたのでしょう。

過去には奉行に過ぎないと考えていた石田三成が家康に反感を持つ勢力を集め家康と互角の戦力を作り上げ、家康に戦いを挑んできたことがあります。

豊臣秀頼の存在は徳川にとっても大きな不安材料だったのは間違いありません。

この会見より後、家康は豊臣家を特別扱いせず一大名として扱うようになります。

その後、浅野長政、加藤清正らかつて豊臣家臣だった大名が次々と亡くなっていきます。

豊臣家への圧力強まる

慶長19年(1614年)。秀頼が再建していた方広寺大仏殿がほぼ完成しました。
ここで問題が発生。いわゆる「方広寺鐘問題」です。

詳細は片桐且元の記事参照

家康との交渉役を務めていた片桐且元が持ち帰った案に対して淀殿や側近は激怒。且元を裏切り者扱いし殺害を試みます。
秀頼と木村重成が仲裁しますが、且元は大坂を出て高野山に入ると言って聞きません。結局、且元の改易が決定しました。

片桐且元の改易はすぐに家康に伝わります。家康はこれを口実に豊臣秀頼討伐の命令を出しました。

こうなった以上は徳川との対決は避けられません。秀頼もすぐさま浪人を集め徳川を迎え撃つ準備を始めます。

家康はこじれてしまった方広寺の問題を利用して、且元を裏切り者にして豊臣方を分裂させ。その混乱を利用して豊臣討伐の命令を出したのでした。

秀頼としても一時的に頭を下げることはできても、一大名として江戸幕府の制度に取り込まれてしまえば関白にはなれません。

片桐勝元も豊臣方もまんまと家康の策にはまってしまったのでした。

家康はすでに大坂城攻撃のための準備をすませていました。あとはいつ命令を出すかの問題だけでした。

秀頼も家康が攻めてくることは予想してしました。

慶長19年10月2日(1614年)。
秀頼は福島正則、加藤嘉明ら豊臣恩顧の武将に激を飛ばしましたが、味方をするものはほとんどいませんでした。

その一方で、浪人や関ヶ原の戦いで改易された武将を集め兵力の増強を行っていました。武器、兵糧を買いこみ、大坂城周辺の砦を増強しました(このとき作られた砦のひとつが真田丸)。

大野治長らは籠城戦を主張、浪人達は野戦を主張しました。結局、秀頼は籠城戦を選択します。いつ幕府軍が攻めてくるかわからない切羽詰った状況です。
10万の兵とはいえ、寄せ集めの浪人を短期間で組織的な戦闘ができる軍に仕上げるには無理がありました。なにより、今の豊臣方には大軍を指揮した経験のある武将がいません。まとまりのない軍が野戦でいかに脆いか、その不安は大坂夏の陣で的中するのでした。

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大坂の陣

11月15日。豊臣方と幕府方の戦いが始まります。大坂冬の陣です。
幕府軍の攻撃で各地の砦は落とされますが、真田丸の戦いでは敵を撃退するなど互角の戦いをみせていました。

しかし、幕府軍が長距離攻撃のできる大砲で攻撃をおこないます。家康が大坂城攻略の前に国内外から集めた当時最先端の大砲でした。大坂城内にも被害が出るなど、次第に劣勢に立たされます。

それでも秀頼は徹底抗戦をするつもりでした。しかし戦意喪失した淀殿の懇願により和平することにしました。

冬の陣終了から夏の陣まで

講和の条件の中には大坂城の堀を埋めることが含まれていました。外堀を徳川方、内堀を豊臣方が埋める予定でした。
秀頼はできるだけ内堀をゆっくり埋めることで時間を稼ごうとしました。でも徳川方は猛烈な速さで堀を埋めていきます。大坂の町の家屋を取り壊してまで堀を埋め立て、内堀まで埋めてしまいました。

幕府からは秀頼の大坂退去や浪人の追放が求められますが拒否します。
このころ淀殿は徳川に降伏してもよいと考えていたようですが、浪人達は徹底抗戦を主張。大坂城内で幕府との交渉を担当していた大野治長が浪人に襲われます。引くに引けない状況でした。

交渉は決裂、再び戦になることは避けられないと考え4月12日に城内の金銀を浪人に配り戦に備えます。埋められた堀を掘り返す作業を始めます。

5月5日。徳川家康は大坂城攻撃のため軍を出します。「兵糧は3日でよい」というほど余裕でした。

堀の掘り返しは間に合いません。裸城の大坂城では籠城戦はできません。
野戦をすることになりました。

大坂夏の陣

5月6日。大和路を向かってくる幕府軍との間で戦闘が起こります。
20万ともいわれる幕府軍に対して豊臣方は7万5千。
しかも武将達のまとまりがなく、それぞれが勝手に突撃を行い各個撃破されていきました。豊臣方は各地で敗退します。浪人として雇ったものの中に内通者がいて、作戦が洩れていたようでした。

5月7日。大野治房、毛利勝永、真田信繁らの活躍で一部では戦果をあげますが、全体的には劣勢でした。

秀頼は大坂城の門に陣を構え、出陣のタイミングを計っていました。
そこへ真田信繁と長宗我部盛親が裏切ったという報告が届きました。豊臣方の有力武将まで寝返ったら、わざわざ殺されにいくようなものです。出陣は中止になりました。

この報告をしたのは大野治長の弟・治純でした。実は裏切りの情報は嘘でした。大野治純は徳川家康に内通していたのです。大野治長の弟ということもあり信じてしまいました。

余談になりますが、この時代総大将は本陣にいるもので戦場に出るのはありえないことです。もし秀頼が本気で出るつもりだとしたら、無謀か、相当な勇気のある人のどちらかでしょう。また浪人達は秀頼個人に忠義を誓ってるわけじゃないのでどの程度士気があがるのかは疑問です。

現代の我々はこの戦いで豊臣家が滅亡する前提で考えてます。だから「戦場で散ったら格好いいよね」と、秀頼に滅びの美学を期待してしまいます。ですが秀頼本人はここで滅亡するつもりはなかったのかもしれません。

幕府軍の大軍の前に、午後3時ころには豊臣方は壊滅。
戦場で唯一、幕府軍と互角に戦っていた毛利勝永の指揮の元、生き残った豊臣方は撤退します。

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秀頼の最期

しかし殺到する徳川方を防ぎきることは出来ません。大坂城内に進入されます。

すると城内の浪人たちが略奪を始めました。大坂城は内通者によって放火されます。
ルイス・フロイスの手記によると、このとき放火したのは徳川に寝返ろうとする浪人で、秀頼につかまり石垣から落とされて死んだとあります。実際に裏切者を処刑したのは毛利勝永や大野治長だったかもしれませんがもはや城の混乱は収まりません。
味方のはずの浪人たちまで敵になり大坂城内は戦場の様なありさまでした。
秀頼と淀殿は毛利勝永に守られ蔵に避難します。蔵は徳川軍に包囲されます。

秀頼の正室・千姫を逃がします。保護された千姫は秀頼の助命を嘆願しますが無視されます。

秀頼と淀殿は毛利勝永の介錯で自害しました。享年23。

秀頼には側室との間に息子の国松がいました。
大坂城を脱出することに成功しましたが、幕府につかまり処刑されます。享年8歳。

 

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コメント

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