エカテリーナ2世・夫を追放して権力を手にしたロシア帝国の女帝

エカテリーナ2世(フレデリーケ)はロシア帝国の皇帝にまでなった女性。

多くの愛人がいたため夫の死後「玉座の上の娼婦」「夫殺しの王位の簒奪者」と呼ばれました。

波乱の人生を歩んだエカテリーナ2世とはどんな人だったのでしょうか。

彼女の生涯を紹介します。

 エカテリーナ2世とは

名前:エカテリーナ2世アレクセーエヴナ(Екатерина II Алексеевна)
ラテン語表記:Yekaterina II Alekseyevna
ドイツ時代の名前:ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ
地位:ロシア帝国皇太子妃、皇后、大帝
生年: 1729年4月21日 
没年: 1796年11月6日
在位: 1762年6月28日~ 1796年11月6日
日付はとくに注意書きのない場合はロシア歴で書いてます。
父:クリスティアン・アウグスト
母: ヨハンナ・エリーザベト

兄:カール・アウグスト

夫: ピョートル3世、グリゴリー・ポチョムキン

子:
 父:セルゲイ・サルトゥイコフ
  パーヴェル1世
 父:スタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵
  アンナ・ペトロヴナ
  ナターリア・アレクセーエヴナ
 父:グリゴリー・オルロフ公爵
  ナターリア・アレクセーエヴナ
  エリザヴェータ・アレクセーエヴナ
  アレクセイ・ボーブリンスキー
 父:グリゴリー・ポチョムキン公爵
  エリザヴェータ・ポチョムキナ

名前の呼び方。
日本では「エカテリーナ」の呼び方が一般的です。
歴史学者の間ではロシア語の発音に近いということで「エカチェリーナ」と表現されることもありますが、ロシア語の発音は「イェカチェリーナ」に近いです。どちらの表現にしてもロシア語の再現は難しいので、エカテリーナでも問題ありません。この記事では一般によく知られているエカテリーナで表現します。

また、ドイツ語や英語式に「カタリーナ」「カザリン」「キャサリン」と発音することもあります。エカテリーナは英語の「キャサリン」、ドイツ語の「カタリーナ」、フランス語の「カトリーヌ」と同じ意味です。ギリシア語で「純粋」を意味する katharosかもとになってます。

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ドイツ産まれの王女

1729年4月21日。プロイセン王国のポンメルン地域(現在はポーランド共和国ポメラニア)で産まれました。

プロイセン王国は現代のドイツ北部から、オーストリア、ポーランドを含む地域にあった国です。ポンメルンは北ドイツと呼ばれる地域にありました。

父はプロイセン王国の貴族クリスティアン・アウグスト。母はクリスティアン・アウグスト。ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと名付けられました。ルター派のキリスト教徒(プロテスタント)です。

フレデリーケは神聖ローマ帝国の王女だったのです。

フランス人家庭教師の教育を受け、フランス語にも堪能でした。頭がよく合理的な考えの持ち主。乗馬が得意でしたが音楽は苦手。

ロシア皇太子妃になる

14歳のときロシア皇太子妃候補になります。兄カール・アウグストがロシア皇帝エリザヴェータ・ペトロヴナの元婚約者だった縁で皇太子妃候補になったようです。

1744年。ロシア帝国サンクトペテルブルクに到着。ロシア正教に改宗し、エカリーナ・アレクセーエヴナと改名しました。ロシア語も習います。

1745年。エリザベータの甥で皇太子のピョートル・フョードロヴィッチと結婚。ピョートルもドイツ生まれのため日常会話はドイツ語でできました。ピョートルはあまりロシアにはなじまずドイツ風の生活を続けたためエリアベータとはあまり仲がうまくいってませんでした。

しかもピョートルは男性能力に障害があったため、結婚も夫婦の営みはありませんでした。

エカテリーナはセルゲイ・サルトゥイコフ伯爵を愛人にして関係をもちます。ピョートルに障害があったため周囲の者も黙認しました。エリザベータ女帝も跡継ぎ目的のため愛人をつくることを認めました。

そうなるとピョートルは面白くありません。大宰相ミハイル・ヴォロンツォフの姪エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァと親しくするようになり、夫婦関係は破綻します。

エカテリーナはセルゲイだけでなく何人もの愛人を作り多くの子供を産みました。

1761年。エリザヴェータ女帝が死去。ピョートル3世が即位しました。エカテリーナは皇后になりました。

ところがピョートル1世はプロイセンに友好的な政策をとったため国内では不評でした。プロテスタントだったピョートル1世はロシア正教を迫害します。エカテリーナを廃して愛人のエリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを皇后にしようともしました。

国内ではピョートル3世の不満が高まり、エカテリーナを支持する動きが広まります。しかし当時のエカテリーナは愛人グリゴリー・オルロフの子供を妊娠していたのですぐには動けませんでした。

クーデターを起こして皇帝になる

1762年。エカテリーナは出産後、近衛軍やロシア正教会を味方にしてクーデターをおこしました。ピョートル3世に反感をもっていた貴族はことごとくエカテリーナの味方になりました。ピョートル3世は幽閉され間もなく死亡しました。

ロシア皇室の血をひいていないエカテリーナが皇帝になることに反対意見はありましたが、結局エカテリーナが皇帝になりました。

ロシア帝国女帝エカテリーナ2世の誕生です。

オスマン帝国との戦い

ロシアとオスマン帝国は仲が悪く何度も戦争が行っていますが、エカテリーナ2世の時代も2度にわたってオスマン帝国と戦争を行いました。

1768年~1774年の間に行われた戦いでロシア軍が買ってウクライナの大部分をロシア領にしました。第一次ロシア・トルコ(露土)戦争と呼びます。

1787年~1791年には戦いが行われ。この戦いでロシアが優位になりクリミア・ハン国がロシア領になりました。何度も行われたロシアとオスマン帝国の戦いで、オスマン帝国は次々と領土を奪われ疲弊していきます。

ポーランド・ロシア戦争

エカテリーナ2世は1763年ごろからポーランドに内政干渉しました。

プロイセンとオーストリアはポーランドがロシアに奪われることを心配して、ロシア・プロイセン・オーストリアによる分割を提案します。エカテリーナ2世はそれを認め、ポーランドの一部がロシア・プロイセン・オーストリアによって分割されました。

しかしポーランド王スタニスワフ2世は、領土分割に不服でロシアに抵抗します。ところがポーランド国内ではスタニスワフ2世に反対する者たちとの間で対立が怒ります。

1792年。エカテリーナ2世はポーランド・リトアニア共和国の内覧に漬け込んでポーランドに宣戦布告。1793年にポーランド王スタニスワフ2世は幸福。ポーランドは国土の多くをロシアに譲り渡しました。

領土分割に不服なポーランドは1794年にロシア・プロイセン連合に反乱を起こしました。その戦いでもロシアが勝ち。ロシア、ハプスブルク帝国、プロイセンによって領土は分割されました。この結果ポーランド・リトアニア共和国は消滅します。

こうしてロシア帝国の領土を広げ大きな鉱石を上げたエカリーナ2世は、1796年発作を起こして倒れました。死因は脳梗塞でした。享年67歳。