ハフサ・アイシェ、宮廷で大きな影響力を持っていたスレイマン1世の母后

ハフサ・アイシェはオスマン帝国の母后。皇帝スレイマンの母親です。

ハフサ・スルタンとも呼ばれます。スルタンは皇帝と訳されることが多いですが、本来は皇族の一員という意味です。そのため皇后や皇帝の子女にも使われました。そのため名前にスルタンとつけば皇族の一員と認められていることになります。

ハフサ・アイシェはValide sultan(母后)の称号が与えられた最初の人物です。

ハフサはスレイマン1世時代の王室で大きな影響力を持つ女性でした。

トルコのドラマ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」で知った方も多いのではないでしょうか。

ハフサ・アイシェとはどんな人だったのでしょうか。

 ハフサ・アイシェとは

名前:ハフサ(Hafsa)
地位:オスマン帝国皇太后(Valide sultan)
本名:アイシェ(Ayse)
生年:1479年?
没年:1534年
父:メングリ1世ギレイ(Mengli I Giray) クリミア王
母:不明
夫:セリム1世(Selim I)
子供:
長男・スレイマン1世
長女・ハティス
次女・ビーハン
三女・ファトマ
四女・ハフサ

ハフサ・アイシェはクリミア・タタール人のカーン(統治者)メングリ1世ギレイの娘だといわれます。

オスマン帝国と隣接するクリミアのイスラム系王室同士の結婚でした。

アイシェはクリミア時代から名乗っていた名前。ハフサはオスマン帝国で与えられた名前だといわれます。

時期はわかりませんが、ハフサは黒海沿岸の都市トラブゾンの知事をしていた王子セリム1世のハレムに来ました。

セリム1世には何人もの兄がいて王位継承権は低かったのです。ハフサは王子のハレムの一員にとどまるかに思えました。

1494年。トラブゾンにて長男スレイマン1世が産まれました。

1496年。長女ハティス誕生。

1498年。次女ビーハン誕生。

1500年。ファトマ誕生。

1512年。オスマン帝国内でサファビー朝ペルシャと内通した豪族が反乱を起こしました。兄たちが反乱の鎮圧に手こずっている間にセリムはクーデターを起こして王位につきました。

オスマン帝国第9代皇帝セリム1世の誕生です。

セリム1世には正式な妻としての皇后はいませんでした。ハフサも数多くいるハレムの愛妾の一員です。しかしセリム1世には男子が一人しかいませんでした。ハフサは唯一の王子の母として地位は安泰でした。

1512年。スレイマンはトルコ西部の街マニサの知事になりました。マニサは首都イスタンブールに近く皇太子や王位継承の有力候補が暮らす街でした。

ハフサもスレイマンに同行してマニサに移り住みました。王子は経験を積むために知事になることがもとめられました。王子が知事になるとその母親も同行することが多かったようです。

ハフサはマニサに病院を建てました。モスクや学校と一緒になった複合施設でした。力を持った王族の女性は慈善事業を行うこともあったようです。

1520年。セリム1世が死去すると、息子のスレイマン1世が第10代皇帝に即位しました。ハフサはスレイマンに同行してイスタンブールに来ました。

ハフサには皇帝の法的な母親、つまり皇太后を意味する「ヴァリデ・スルタン(Valide sultan)」の称号が贈られました。Valide sultanの称号をもつ最初の人物がハフサです。

イスラム世界では女性の地位は低く皇帝の母といってもそれほど大きな力はありませんでした。しかしスレイマンの時代に皇帝の母の地位は高くなりました。

皇帝の母后となったハフサは大きな影響力をもっていました。スレイマン時代の宮廷で最も影響力のある女性でした。

スレイマン時代のハレムといえば愛妾ヒュッレム・ロクセラーナとマヒデブランの争いがゆうめいですが。ハフサが生きている間は二人の対立は記録されていません。ヒュッレムとマヒデブランの争いが記録に残るのはハフサの死後です。

ハフサが二人を押さえつけていたので、問題は表面化しなかったようです。それだけハフサの影響力が大きかったということなのでしょう。

1534年。イスタンブールで死去。

夫・セリム1世の霊廟の隣に葬られました。

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