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ヒュスレヴ・パシャ|抗議の断食で死亡したオスマン帝国の宰相

ヒュスレヴ・パシャはオスマン帝国の政治家。

ディバン・ヒュスレヴ・パシャ(Divane Hüsrev Paşa)ともいれます。

各地の知事をつとめたあと、第2宰相になりました。

ヒュスレヴ・パシャについて紹介します。

ディヴァン・ヒュスレヴ・パシャの史実

名前:ヒュスレヴ(Hüsrev)
地位:オスマン帝国
生年:不明
没年:1545年
父:不明
母:不明
妻:不明
子供:不明

ディヴァンは愛称。名前ではありません。「狂った」の意味があります。

弟にララ・ムスタファ・パシャがいます。ララ・ムスタファ・パシャはムラド4世の時代に大宰相を務めました。

オスマン帝国第12代皇帝・ムラド3世の時代に大宰相になったララ・ムスタファ・パシャの兄。

11代皇帝セリム2世の時代に大宰相だったソコル・パシャの親戚です。

デヴシルメで徴用されたあと、国立の学校エンデルンで教育を受けました。その後、騎兵になりました。しかし軍から脱走したため解雇されます。

後に許されて宮殿に戻されました。

1514年にはカラマン(トルコとイランの国境付近にある平野)で、オスマン帝国とサファビー朝の戦いがありました。ヒュスレヴはこの戦いに参戦。

その後のエジプトとの戦争(1516~1517年)にも従軍して功績を重ねます。

スレイマン1世の時代

1520年。クズルバシュの反乱を鎮圧しました。クズルバシュとはイスラム教シーア派サファビー教団の信者。およびその信徒たちが作る武装組織です。サファビー朝の援助を受けてオスマン帝国内で抵抗活動をしていました。

1521年にはアナトリア州の知事になりました。

その後、トルコ南東部のディヤルバクルの総督になりました。(現在のトルコ共和国ディヤルバクル県)。この土地で10年間知事を務めます。

1532~33年にヨーロッパでの軍事作戦に参加。

1533年。アレッポで知事を務めました。

1535年。エジプト州の総督になります。

エジプト州ではハディム・スレイマン・パシャが10年間知事を務めていましたが、その後任です。

1536年。横領の罪で告発されました。ヒュスレヴ・パシャが横領したという証拠は見つかりませんでしたが、スレイマンは総督から外します。

1537年。アナトリアの知事になりました。

その後、ヨーロッパでの軍事作戦に参加。カステルノヴォを占領するなどの手柄をたてます。

1541年。第4宰相になりました。

その後、第2宰相になりました。

当時、大宰相だったのはハディム・スレイマン・パシャ。

リュステム・パシャも宰相になっていました。

このころになると周囲から「ヒュスレヴ・パシャは次の大宰相になるだろう」と予想されていました。

皇帝スレイマン1世の目の前で大宰相と喧嘩

ところが、ヒュスレヴ・パシャとハディム・スレイマン・パシャはエジプト時代の不正を巡って険悪な関係でした。そんな二人をリュステムは煽り対立を深めさせました。

1545年。スレイマン1世の出席する御前会議で大宰相ハディム・スレイマン・パシャと口論になりました。あまりにも白熱したため、ヒュスレヴ・パシャは短剣を抜いてしまいます。

スレイマン1世は二人の争いを止めさせたあと、二人とも解雇しました。

抗議の断食で死亡

解雇されたヒュスレヴ・パシャは失意のあまり寝込んでしまいました。

そのまま何も食べず、水も飲みませんでした。医師が食事をとるようにすすめましたが断りました。

そして17日間の断食の末、死亡しました。

トルコ史上、最初のハンガーストライキで死亡した人といわれます。

ドラマ

トルコのドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム・シーズン3」にも登場。

ドラマの中では大宰相イブラヒムの死後、ハティジェ皇女と結婚しました。

しかし歴史上はハティジェ皇女の夫になった記録はありません。

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