ムスタファ:父スレイマン1世によって処刑された悲劇の皇子

ムスタファ皇子はオスマン帝国10代皇帝スレイマン1世の息子。シェフザーデ・ムスタファともいいます。

トルコドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム」にも登場します。

有力な王位継承者といわれましたが、謀反の疑いをかけられ処刑されてしまいます。

史実のムスタファはどんな人だったのか紹介します。

シェフザーデ・ムスタファの史実

名前:ムスタファ(Mustafa)
地位:オスマン帝国皇子(シェフザーデ:Şehzade)
生年:1515年
没年:1553年
父:スレイマン1世
母:マヒデブラン
妻:不明
子供:メフメド他

ムスタファ(Mostafa)はイスラム教の預言者ムハンマドの別名。イスラム圏ではよくある名前です。「選ばれた者」「優先された者」という意味です。

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いつの時代の人?

彼が生きた時代は9代セリム1世や10代スレイマン1世が領土を拡大して、オスマン帝国が最も栄えていたころです。

日本では戦国時代。斎藤道三(1494-1556)や武田信玄(1521-1573)とほぼ同時代です。

ムスタファのおいたち

 1515年。オスマン帝国の都市・マニサで生まれました。

父はスレイマン。スレイマンのシェフザーデ(皇子:Şehzade)時代に生まれた子供です。当時のスレイマンはマニサで知事をしていました。

母はスレイマンの愛妾マヒデブラン。

スレイマンにとっては次男。

マヒデブランにとっては最初の男子になります。

1520年。祖父の皇帝セリム1世が死去。父のスレイマンが即位しました。父や母とともにマニサからコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)のトプカプ宮殿に移り住みました。

1522年にスレイマンの長男マフムードが10歳で病死したため、ムスタファが有力な後継者として育てられました。

母マヒデブランはスレイマンの寵愛を受けた愛妾でした。スレイマンはトプカプ宮殿に新しく来た側女ヒュレムを寵愛します。スレイマンとヒュレムとの間には4人の男の子が生まれました。メフメド(Mehmed)、セリム(Selim)、バヤジッド(Bayezid)、ジハンギル(Cihangir)です。

とくにメフメド、セリム、バヤジッドは王位継承者のライバルになりました。ジハンギルは若くて病弱だったのでライバルにはならなかったようです。

ヒュレムはスレイマンのお気に入りでした。

しかし宰相のイブラハムもムスタファを支持していました。イブラヒムはムスタファを訓練して一人前の戦士に育てました。王位を次ぐ者ににふさわしい教育を行いました。

1529年。トルコ北部の町・カラマンの知事になりました。オスマン帝国の皇子は経験を積むために知事になることがよくありました。

1533年。ムスタファはマニサの知事になりました。マニサは首都コンスタンティノープルに近く有力な皇子が知事になることが多かったようです。マニサに来たムスタファを見て町の人々は将来の皇帝がやってきたと歓迎しました。

各国の大使もムスタファを優れた皇子だと本国に伝えました。

しかしスレイマン1世がメフメドが後継者としてふさわしいのではないかと考え始めます。皇帝妃になったヒュレムの影響があったのでしょう。

1533~34年の間にヒュレムがスレイマン1世と法的に結婚。皇后になりました。スレイマンには何人もの愛妾はいましたが正式な妻としての皇后はいませんでした。ヒュレムが皇后になってしまったのです。

1536年。大宰相のイブラハムが処刑されました。ムスタファは有力な支援者を失ってしまいます。

1541年。ムスタファはアマスヤの知事になりました。かわりにマニサの知事になったのはメフメドでした。バヤジッドはキュタヒヤの知事になりました。キュタヒヤとマニサはコンスタンティノープルからほぼ同じ距離にあります。

1543年。メフメドが病死します。王位継承者のライバルはいなくなったかのように思われました。しかしヒュレムは息子を皇帝にしようとします。

1544年。マニサの知事になったのはセリムでした。

1549年。ムスタファはコンヤの知事になりました。

ペルシャとの戦争中にリュステム・パシャがムスタファに対してスレイマンの軍に合流するよう言いました。

スレイマン1世がムスタファを殺そうとしているという噂を聞いたマヒデブランは、ムスタファにスレイマン1世のもとには行かないように伝えましたが、ムスタファはスレイマン1世のもとへ行きます。

一方で、リュステム・パシャはムスタファが謀反を企んでいるとスレイマン1世に報告します。リュステム・パシャはヒュレムの娘婿。ヒュレムのおかげで出世したので、ヒュレムの息子を王位につけようとしていました。

既に高齢のスレイマン1世は軍を率いて合流しようとやってきたムスタファを見て驚異になるに違いないと考えてしまいました。ムスタファの処刑を命令します。

ムスタファは呼び出されてスレイマンのいるテントに向かいます。しかしそこにはスレイマン1世はいませんでした。そこにいたのは兵士たちで、一斉にムスタファに襲いかかってきました。ムスタファも必死に反撃して戦いましたが、最後は弓矢で殺害されてしまいます。享年38。

ムスタファには息子メフメドがいましたが、メフメドも処刑されました。

ムスタファの死の影響

ムスタファが死亡した数週間後に末弟のジハンギルが死亡しました。ジハンギルはもともと病弱でしたがムスタファとは仲がよかったのです。ジハンギルは自分の兄弟を殺そうとする母には反感をもっていたといいます。ジハンギルの直接の死因は分かっていませんが、ムスタファの死が影響しているといわれます。

イエニチェリ(常設歩兵軍団)の兵たちはムスタファを慕っていました。ムスタファの死を聞いた兵たちは反乱を起こします。スレイマン1世を「狂った年寄り」と批判。スレイマン1世を惑わせたリュステム・パシャとヒュレムの処刑を主張しました。しかし指導者を失ったイエニチェリは混乱して反乱は鎮圧されてしまいます。それでもスレイマン1世は兵たちを鎮めるためリュステム・パシャを解任しました。

ムスタファは悲劇の王子として有名でヨーロッパでは様々な文学の題材になっています。