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ヌールバーヌー・スルタン|ハレムからセリム2世を操ったヴェネチア女性

ヌールバーヌーはオスマン帝国の第11代皇帝セリム2世の正妻。

第12代皇帝ムラド3世の母です。

スレイマン1世死後、セリム2世~ムラド3世時代のハレムで大きな権力をもった女性だと言われます。このころから皇帝の権力が落ちてハレムの影響が強くなったと言われます。ハレムが国を動かしていると言われるのもこの時代。

ヌールバーヌーの史実

名前:ヌールバーヌー(Nurbanu)
地位:オスマン帝国
生年:1525年
没年:1574年
父:ニコロ・ヴェニエ
母:不明
子供:
長女:シャー・スルタン
次女:イスミハン・スルタン
長男:ムラド3世

本名は チェチーリア・ヴェニエル・バッフォ(Cecilia Venier-Baffo)だといわれます(英語圏ではセシリア)。

1525年。ヴェネチア貴族ニコロ・ヴェニエの娘として生まれました。伯父はヴェネチアの元首を務めたセバスティアーノ・ヴェニエル。

1537年。フズル提督のヴェネツィア遠征中に、エーゲ海で捕らえられオスマン帝国に連行されました。イスタンブールに送られハレムに入りました。オスマン帝国では ヌールバーヌー(光の娘)という名前を与えられました。非常に美しく知性のある女性だったといわれます。

1543年。セリム皇子のハレムの娘になるためコンヤに送られました。ヌールバーヌーはセリムの寵愛を集めました。

その後、セリムがマニサの知事になったのでマニサに異動。

1544年。第一子 シャー・スルタンを出産。

1545年。第二子 イスミハン・スルタンを出産。

1546年7月4日。第三子 シェハザーデ・ムラドを出産しました。ムラドが後の12代皇帝ムラド4世です。

マニサでいる間、ヌールバーヌーがハレムの長として仕切っていました。

ムラド出産後、側女の身分から開放されて法的に結婚。セリムの正妻になりました。

セリム2世の時代

1566年。スレイマン1世が死去。セリムが皇帝になりました。

ヌールバーヌーはセリムとともにイスタンブルに異動。セリムは父・スレイマンが母ヒュッレムをずっとトプカプ宮殿に置いたように、ヌールバーヌーをずっとトプカプ宮殿のハレムに住まわせました。

それまでのオスマン帝国では息子が知事になると母は息子と一緒に地方に行くのが普通でした。スレイマンがその慣習を破ったので息子のセリムも同じことをしました。

セリム2世は他にも何人もの側女がいました。でもセリム2世はヌールバーヌーを最も愛していました。ハセキスルタン(跡継ぎの母)として尊重しただけでなく、ヌールバーヌー自身が美しい上に賢くて判断力もよかったからです。そのためセリム2世の相談相手になりました。

ヌールバーヌーはセリム2世に大きな影響力をもちました。そのため、大宰相ソコルとともにオスマン帝国の政治を動かしていたといわれます。

ヌールバーヌーは息子が一人だけでした。ヌールバーヌーに対抗できる側女はいなかったのでムラドの即位を邪魔するものはないと信じていました。

ヌールバーヌーの目論見通り、ムラドはマニサの知事になりました。セリム2世が死去するまでマニサから外されることはありませんでした。

母后ミフリマーフとの関係

セリム2世が即位したには既に母ヒュッレムは他界していました。そのためセリムの姉ミフリマーフがヴァリデスルタン(母后)を務めました。

ヌールバーヌーにとっては小姑がハレムを仕切っている状態が続きました。

ヌールバーヌーとミフリマーフとの間には確執があったのではないかとも噂されますが、詳しいことはわかりません。

ミフリマーフは大宰相ソコルを味方にしていました。ヌールバーヌーにとっても手ごわい相手だったでしょう。

でもヌールバーヌーはセリム2世の信頼を得ていました。

ハレムの中ではスレイマン・ヒュッレム時代と似たようなことが起きていたかもしれません。

母后ヌールバーヌー

1574年。セリム2世が死去。

ヌールバーヌーはセリム2世の死を隠しました。

息子のムラドが12代皇帝になりました。夫の遺体を氷漬けにして隠し、息子のムラドをすぐにイスタンブルに呼び寄せました。そしてムラドが到着してセリム2世の遺体に対面した時、セリム2世の死が公表されました。その間、セリム2世の死を知るものはいなかったのです。

ヌールバーヌは母后(ヴァリデスルタン)になりました。この時代に母后(ヴァリデスルタン)を頂点にし、側女達を黒人宦官長が管理するハレムの組織が完成しました。

ところがムラドと仲の良かったミフリマーフはハレムに残りました。

ムラド3世の妃サフィエ・スルタンとの確執もありました。

そのためでしょうか。

ヌールバーヌーはトプカプ宮殿では暮らさずイェニカプ宮殿で暮らしました。イスタンブルの中ににある宮殿です。

ヌールバーヌーはユダヤ人商人など外部の人との付き合いも多く、ヴェネチアの情報を仕入れたりしていました。カトリーヌ・ド・メディチとも連絡をとりあっていました。

 

ヌールバーヌーがハレムの中で圧倒的に強いわけではなかったようです。

1583年。ヌールバーヌーはイェニカプ宮殿で死去。死因は胃がんです。

一説には「毒殺された」という噂もあります。ヌールバーヌーはヴェネチア出身なので、ヴェネチアに有効的でした。そのためヴェネチアと敵対しているジェノバ共和国から憎まれていたというのです。ジェノバから暗殺者が送り込まれ毒殺されたという噂もたちました。

あくまでも噂です。

 

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