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オスマン帝国の大宰相たち(スレイマン1世~セリム2世時代)

スレイマン1世からその次のセリム2世時代に活躍した大宰相。ピリー・メフメト・パシャからソコル・メフメド・パシャまで紹介します。

オスマン帝国の大宰相とは

オスマン国 第2代皇帝・オルハンの時代。ムスリム王朝の制度を参考に国内の様々な制度を作りました。

このとき、国王を補佐するために宰相制度を採用しました。

オスマン国では最初は宰相(vizier)は一人だけでした。そのうち宰相は複数任命されるようになります。

第3代皇帝・ムラド1世の時代。宰相の中で代表者が大宰相(sadrazam)と言われるようになりました。最初の大宰相はハリル・ハイレッデンでした。ハリル・ハイレッデンはオスマン帝国を支えた徴用制度「デヴシルメ」を作った人です。

大宰相の権限は大きなもので事実上の「皇帝の代理人」でした。宮殿で行われる御前会議では議長になります。宰相達を集めて会議を行う権限がありました。

大宰相を任命できるのも解雇できるのも皇帝だけでした。

大宰相は官僚機構のトップに位置して権力が集中していました。そのため、オスマン帝国の歴史では非常に強力な力をもった大宰相が何人か登場します。

10代皇帝スレイマン1世の時代のように有能な皇帝がいれば大宰相をコントロールすることもできました。11代皇帝セリム2世以降は皇帝の力が弱くなり大宰相が中心になって国を動かしていました。

皇帝と大宰相の関係は、日本で例えれば天皇と摂政・関白、将軍と大老の関係に似ています。

デヴシルメ出身が多かった宰相達

オスマン帝国にはデヴシルメという制度がありました。「血液税」と訳されることもあります。事実上の徴用制度です。

領内に住む健康なキリスト教徒の男児を集め、教育して軍人や役人にする制度です。イスラム教徒は徴用できません。

イブラヒムの少年時代の回送の中で徴用の様子が描かれています。予備知識なしで見るとまるで拉致みたいです。

徴用された少年の多くは軍人になります。有能な者は宮殿に送られ小姓になります。小姓は成人すると役人になりました。デヴシルメで集められ小姓や役人になった者をカプクルといいます。

皇帝の下僕「カプクル」

カプクルとは「家の下僕」という意味。皇帝直属の奴隷です。

奴隷といってもキリスト教世界で強制労働されている有色人奴隷や、中国圏の奴婢とも違います。カプクルは一定の権利が保証されていて、能力と働き次第では出世することもできました。宰相や大宰相になるカプクルも登場します。

皇帝の下僕とはいえ、一般人(自由人といいます)よりも権力と富を持っている人もいました。

カプクルは故郷から切り離されて連れてこられました。そのため一族の後ろ盾がありません。皇帝に忠誠を誓うしか出世する道がないのです。そのため反乱の危険性も少ないと考えられました。

イスラムの世界では皇帝であっても自由人を勝手に処刑できません。裁判をしなければいけないのです。カプクルは皇帝の下僕なので財産の没収や処刑は皇帝の思惑でできました。

歴代皇帝は有力な貴族たちが皇帝に対抗するのを防ぐため、積極的にカプクルを採用しました。

スレイマン1世はとくにカプクルを多く採用しました。セリム1世時代から大宰相だったピリー・メフメトは名門出身ですが。スレイマンが即位後に任命した大宰相はすべてカプクルです。

スレイマン時代の大宰相

大宰相・宰相の名前の後には「パシャ」の敬称を付けますが。ここで紹介する人物は全員パシャなので、「パシャ」は省略します。

ピリー・メフメト

1518年1月25日~1523年6月27日
 出身地:トルコ・アクサライ
 就任期間:約5年半

 1520年にスレイマン1世が即位。

 ロドス島攻略後退任。

イブラヒム

 1523年6月27日~1536年3月14日
 出身地:ヴェネツィア(デヴシルメ)
 就任期間:約13年
 1536年3月15日に処刑

ドラマや漫画で日本でも知られます。スレイマンから絶大な信頼を得て大きな権力を持ちました。

キリスト教圏にも人脈を持ちヨーロッパ諸国との交渉では大きな成果がありました。

1536年3月15日に処刑。様々な説がありますが、はっきりとした処刑理由は不明です。

イブラヒム・パシャの詳しい説明

アヤス・メフメト

  1536年3月14日~1539年7月13日
 出身地:アルバニア(デヴシルメ)
 就任期間:約3年

イブラヒムの処刑後大宰相になりました。死亡するまで大宰相の座にありました。

アヤス・パシャの詳しい説明はこちら

チェレビ・ルトフィー

 1539年7月13日~1541年4月
 出身地:アルバニア(デヴシルメ)
 就任期間:約2年

スレイマンの妹・シャー皇女の夫。
シャー皇女に暴力をふるって解任されました。

ルトフィー・パシャの詳しい説明はこちら

ハディム・スレイマン

 1541年4月~1544年11月28日
 出身地:ハンガリー(デヴシルメ)
 就任期間:約3年半

スレイマンの御前で短剣を抜きヒュスレブ・パシャと争って解任されました。

リュステム(1回目)

 1544年11月28日~1553年10月6日
 出身地:クロアチア(デヴシルメ)
 就任期間:約9年

スレイマンとヒュッレムの娘ミフリマーフの夫。
ムスタファ処刑の黒幕と言われます。

ムスタファ処刑に怒ったイエニチェリ軍団が暴動を起こしたため責任を取らせれて解任。

リュステム・パシャの詳しい説明はこちら

カラ・アフメド

 1553年10月6日~1555年9月29日
 出身地:アルバニア(デヴシルメ)
 就任期間:約2年

妻はスレイマン1世の妹・ファトマ皇女

リュステムの後任として大宰相になりました。わずか2年でスレイマンの命令で処刑。「カラ・アフメド・パシャが賄賂をとっている」とリュステムが訴えたためスレイマンが処刑命令を出しました。

リュステム(2回目)

 1555年9月29日~1561年7月10日
 出身地:クロアチア(デヴシルメ)
 就任期間:約6年

カラ・アフメドの処刑後大宰相に復帰。
大宰相就任中に莫大な財を溜め込みました。

1561年に死亡するまで大宰相を努めます。

リュステム・パシャの詳しい説明はこちら

セミズ・アリ

  1561年7月10日~1565年6月28日
 出身地:ボスニア
 就任期間:約4年

妻はミフリマーフの娘・ヒュメイサ。スレイマンとヒュッレムの孫。「セミズ」とは「太った」という意味。

1565年死亡。

ソコル・メフメド

 1565年6月28日~1579年10月12日
 出身地:ボスニア(デヴシルメ)
 就任期間:約14年

1566年。セリム2世即位。
1574年。ムラト3世即位。

セミズ・アリの死亡後、大宰相になりました。

スレイマン時代末期からセリム2世、ムラト3世時代のオスマン帝国を支えた人物。セリム2世時代はほぼソコルが国を動かしていたといってもいいくらい力を持ちました。皇帝としては無能だったセリム2世・ムラト3世の時代にも国が発展したのはソコルの役割も大きいです。オスマン帝国史に残る名宰相といわれます。

サファビー朝との戦争中、敵国が派遣した刺客によって暗殺されました。

 

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