ヤヒヤ・エフェンディ:スレイマンの乳兄弟はマヒデブランを庇って教授を解雇された

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ヤヒヤ・エフェンディはオスマン帝国の学者であり教育者。

母アフィフはスレイマンの乳母だったのでスレイマンとヤヒヤは乳兄弟になります。

オスマン帝国でもトップクラスの学者になり高等教育機関で教授を務めました。しかしムスタファを処刑したスレイマンを避難しマヒデブランを助けるように意見したことからスレイマンとの関係は悪くなります。

学校を解雇された後は独自に資金を集めて活動しました。

ヤヒヤ・エフェンディについて紹介します。

ヤヒヤ・エフェンディの史実

名前:ヤヒヤ・エフェンディ(Yahya Efendi)
地位:オスマン帝国の大学教授
生年:1494年
没年:1569年
父:オメル・エフェンディ
母:アフィフェ・ハトゥン
妻:チェリフ
子供:イブラヒム、アリ

おいたち

1494年。トラブゾンで生まれました。

父は裁判官のオメル・エフェンディ。ヤヒヤが生まれたころ、皇太子セリムがトラブゾンで知事をしていました。セリムとオメルの関係は良好でした。母:アフィフェ・ハトゥンはスレイマン1世の乳母でした。ヤヒヤ・エフェンディとスレイマン1世は乳兄弟になります。

少年時代と青年時代をトラブゾンで暮らし学校で学びました。

スレイマン1世が即位したころ。イスタンブルに移住、オスマン帝国の学会で指導的立場にいるゼンビリ・アリ・エフェンディの弟子になりました。

国立学校の教授になる

1526年にゼンビリが死亡後はムスタファマドラサで教師として働き始めました。マドラサとは学校という意味です。その後、カンバジエ・マドラサの教授になりました。科学・医学・幾何学の権威になったヤヒヤはいくつかのマドラサ(学校)で働きました。

1553年にはオスマン帝国でもトップクラスの高等教育機関サーン・イ・セマン・マドラサの教授になりました。国立大学の教授のようなものです。

教授になった2ヶ月後、ムスタファ皇子が処刑され、その母マヒデブランが宮廷を追放になりました。

するとヤヒヤ・エフェンディはスレイマンの行いを批判しマヒデブランを許すように手紙を書きました。生活に困っているマヒデブランに屋敷を与えるようスレイマンに意見しました。

そのため、しだいにスレイマンとの仲が悪くなりサーン・イ・セマン・マドラサの教授を解任されます。

引退後の活動

引退後、イスタンブルの海沿いの地域ベシクラシュにある土地を購入して家を建てて移り住みました。彼は家のまわりに学校や公衆浴場、広場や噴水を作りました。自分の造った学校で医学や科学を教えました。

この活動を維持するため慈善基金を設立。人々から資金を集めました。軍人や民間人とくに船乗りからの支持が多く彼らからの援助がありました。その資金で活動を維持していました。

スレイマンとの関係も修復し、お互いに贈り物を贈り合う仲に戻りました。手紙を送り国家の問題にアドバイスすることもありました。

ヤヒヤは宮廷に対して困っている人を助けるように手紙を書いて送りました。こうした行いは大宰相のリュステム・パシャやセミズ・アリ・パジャからは疎まれていたようです。

とくにヒュッレムの娘婿のリュステムにとっては、マヒデブランをかばうヤヒヤは迷惑な存在だったでしょう。

セリム2世の時代

1566年。スレイマン1世が死去。セリム2世が即位しました。

セリム2世はヤヒヤを尊敬しており、時々ヤヒヤのもとを訪れ贈り物をしていました。ヤヒヤの意見書が効いたのか、セリム2世はマヒデブランのために屋敷を用意しました。

ヤヒヤは詩人でした「ミュデリス」というペンネームで詩を書いています。

1569年。犠牲祭の日に死去しました。スレイマニエモスクで葬儀が行われた後、生前にヤヒヤが用意していたベシクタシュの墓地に埋葬されました。同じ墓地には母アフィフェも埋葬されています。

1571年。セリム2世の命令でヤヒヤのための新しい墓が建てられました。

ヤヒヤの死後も彼の名声は衰えませんでした。イスタンブルの船乗りからはボスポラス海峡を守る4人の聖人の一人だと信じられています。

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