月光院といえば、大奥で天英院のライバルだった女性です。
江戸幕府6第将軍・徳川家宣の側室。町民から家宣の屋敷に仕えやがて大奥に入り第7代将軍・徳川家継の生母となります。
数ある大奥の逸話の中でも天英院派対月光院派の対立は特に有名なんじゃないでしょうか。
その中心人物となったのが月光院ことお喜世。
月光院とはどんな人だったのでしょうか。
月光院(げっこういん)・お喜世(おきよ)とはどんな人
月光院の名前は勝田輝子(かつたてるこ)。
一般には喜世(きよ)として知られています。左京の局の呼び方もあります。
貞享2年(1685年)生まれ。
父は元加賀藩士で浅草唯念寺の住職・勝田玄哲。母は田治左衛門の娘。
京極氏、戸沢氏に仕えたあと、矢島治太夫の養女になりました。矢島治太夫は4代将軍・徳川家綱の乳母だった矢島局の養子です。
宝永元年(1704年)には徳川綱豊の桜田御殿で働き始めます。喜世は美人だったといわれており、綱豊の寵愛を受けました。
宝永元年12月には綱豊が5代将軍徳川綱吉の養子になりました。綱吉には子がなかったので後継ぎとなったのです。綱豊は江戸城の西の丸に移り住みました。正室の近衛照子や他の側室と一緒に喜世も西の丸に移り住みました。
宝永6年(1709年)綱豊は6代将軍徳川家宣となりました。
宝永6年7月。喜世は男児を出産。鍋松(徳川家継)と名づけました。喜世は左京の局と呼ばれるようになります。
2年後、正徳2年(1712年)家宣が死去。
喜世は落飾して月光院となります。
月光院
正徳3年(1713年)、鍋松は7代将軍徳川家継となりました。月光院は将軍生母となりました。
月光院派は勢いづいたかに見えました。
正徳4年(1714年)、江島生島事件が発生。月光院の側近。大奥御年寄り江島が捉えられてしまいます。月光院の働きかけにより江島は死刑は免れましたが、高遠藩にお預けとなり残りの半生を幽閉されたまま過ごすことになります。他にも月光院派が多く処分されました。
この件で月光院派の勢力が衰えます。
正徳6年(1716年)。家継は風邪をこじらせ亡くなりなりました。徳川家には後継ぎはいません。
すると次の将軍になったのは、天英院が推薦していた紀州藩藩主・徳川吉宗でした。
吉宗は天英院派の働きかけで将軍になれたといわれてますが、月光院と険悪だったわけではありませんでした。
延享2年(1745年)吉宗が隠居の動きを見せると、吉宗の次男・田安宗武の後ろ盾になろうとしました。
吉宗は長男・家重に家督を譲り、その後も大御所として政治にかかわり続けたため実現しませんでした。
宝暦2年(1752年)なくなります。享年68。
実家の勝田家は町医者から3000石の旗本に取り立てられました。3000石とは旗本でも位の高い家柄になります。
昭和になって徳川家の墓地が改装され、そのとき遺骨の調査が行われました。その結果、身長は144cm、血液型はA型、目元がぱっちりした姿だったと推定されています。
「忠臣蔵の恋」「瑤泉院の野望」は架空の話です
月光院がかつて浅野家で侍女として働いていたという記録はありません。
しかし、月光院は遥泉院(亜久里姫・浅野内匠頭正室)とは贈り物をする仲でした。どのような経緯で知り合ったのかはわかりませんが、交流関係はあったようです。
「忠臣蔵の恋」や「瑤泉院の野望」はそこから作者が想像を膨らませて書いた物語です。
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