後藤又兵衛基次、大坂の陣・道明寺で孤軍奮闘し散る

五七の桐

大坂の陣で活躍した後藤又兵衛。
真田幸村(信繁)とともに戦い、大坂方でももっとも有名な武将の一人です。

でも大阪の陣以前の又兵衛についてはわかっていない部分も多く。有名なわりに謎の多い武将です。

大阪冬の陣、夏の陣ともに前線に立ち幕府軍と戦いました。
夏の陣では、幕府軍に囲まれながらも孤軍奮闘し散っていきました。

そんな後藤又兵衛について調べてみました。

 

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後藤又兵衛とは

後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)。又兵衛は通称で、正式には後藤基次といいます。

生まれについては諸説ありますが、永禄3年(1560年)、播磨国神東群山田村の生まれだといわれます。父は後藤基国は別所氏の家臣でしたが、のちに小寺政職のの家臣となります。兄:基秀、弟:基景がいたといわれます。小寺政職が羽柴秀吉によって領地を失うと黒田孝高(官兵衛)に仕えます。

 

黒田家時代

天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉されたとき、黒田家家臣一同は誓紙へ署名することになりました。ところが一族の有力者で叔父の藤岡九兵衛が署名を拒否。そのため一族追放になってしまいました。その後は豊臣秀吉の家臣・仙石秀久に仕えました。

基次も黒田孝高や仙石秀久に仕えていたと思われますが、若いころの詳しいことはわかっていません。

記録が残っているのは天正14年(1586年)、羽柴秀吉の九州攻めのころからです。島津との戦いでは、戸次川の戦いで仙石秀久の下で戦いました。しかし仙石軍は大敗し、領地の讃岐国に逃げてしまいました。しかし後藤基次は九州に残り、黒田家重臣、栗山利安のもとで働きました。そして黒田家の家臣となります。

その後は黒田長政に仕えます。領地替えで問題になった城井氏(豊前宇都宮氏)との戦いでは、黒田長政に従って、宇都宮市の居城・城井谷城攻めに参戦。難攻不落の城井谷城攻めでは長政に撤退を進言しますが聞き入れられず大敗。基次も大けがを負います。

文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵にも参戦。第二次晋州城攻防戦では加藤清正らとともに一番乗りを競いました。

関ケ原の戦いでも黒田長政軍の一員として参戦。石田三成の家臣で槍使いの大橋掃部を一騎打ちで破るなと手柄を立てます。

それ以後は筑前・大隈城(益富城:福岡県嘉麻市)の城主となりました。10000~16000石の領地を与えられたといわれます。

 

黒田家出奔

黒田孝高の死後。慶弔11年(1606年)、基次は黒田家から出て行ってしまいます。基次が細川氏、池田氏ら他国の大名に勝手に書状を出していたことが原因だといわれます。

その後は豊前・細川家にかくまわれますが、黒田家と細川家はもともと仲が良くありませんでしたが、さらに関係が悪化。一触即発になったため徳川家康が仲裁に入り、基次は細川家を去ることになりました。

その後は福島正則・前田利長・結城秀康らから召し抱えたいとの希望が出されますが、黒田長政が召し抱えないように根回ししたため実現しませんでした。これは奉公構という罰が基次にかけられたためです。大名家を出て行ったり、大名家から追放されたたものを他国の大名が召し抱えないようにする刑罰でした。武士にとっては仕官できないことになり、非常に重い罰なのでした。

豊臣秀吉が定めた刑罰ですが江戸幕府でも引き継がれました。

その後は生まれ故郷の播磨国に戻ります。播磨国で領主となっていた池田輝政を通じて、輝政の次男で岡山城主となっていた池田忠継に仕えます。しかし、またしても黒田長政の出した奉公構の刑により再び池田家から去ることになり、京で浪人生活することになりました。

 

大阪の陣

慶長19年(1614年)。大坂の陣が起こります。
後藤基次は大野治長から誘われ大阪城に行きます。

旗頭として天満浦で挙兵式の指揮を任されたときは、見事な采配だったため「摩利支天の再来」と称賛されました。

徳川家康も後藤基次が大坂方についたことは警戒していました。家康としては戦前の予想では真田信繁よりも後藤基次の方が手ごわい相手だと思っていたようです。このころの真田信繁は昌幸の息子ということ以外はたいした話題性がなかったので仕方ないでしょう。

後藤基次は大阪城内では大名格の扱いを受け、大野治長を補佐する立場にありました。

真田丸を作り始めたのは後藤又兵衛だった?

豊臣方では大阪城周辺にいくつもの砦を作りました。防御の弱い大阪城の南側を守るためにも砦を作ることになりました。

その責任者に任命されたのが後藤基次だったといわれます。しかし基次は途中で遊撃部隊に配置が換わりました。かわって砦を任されたのが真田信繁だったという説もあります。
後藤基次が基礎を作り、真田信繁が改良を加えたのが真田丸だったのかもしれません。

大坂冬の陣

冬の陣では6000人の兵を率い遊撃軍として戦いました。

・今福の戦い

11月26日今福村方面を守る矢野正倫、飯田家貞の部隊600に、佐竹軍1500が攻めてきました。木村重成が駆けつけましたが膠着状態になったため、後藤基次が応援にかけつけ佐竹勢を押し返します。その後、上杉、堀尾、榊原の軍が来たため、支えきれずに後藤らは撤退します。この戦いで基次は鉄砲玉をうけ、わき腹に傷を負ったといいますが。その後も戦いました。

・真田丸の戦い

前線を放棄し大阪城の防衛に移った基次は真田丸の西に位置する八丁目口・谷町口付近で木村重成、長宗我部盛親らとともに布陣。幕府軍を迎え撃ちました。真田丸だけが戦っていたように思われていますが、その周辺でも激しい戦いが行われていました。

以後、大阪城をめぐる戦いは大阪城南側で行われ徳川勢と激しい攻防戦が繰り広げられました。12月20日に和議が成立するまで戦いが行われたのでした。

和議のあと4月には再び戦いが始まります。

大坂夏の陣

大和、紀伊方面から向かってくる幕府軍を迎え撃つため。大坂方は術陣しました。大坂夏の陣の始まりです。

大野治房らの部隊が樫井方面で幕府軍と交戦し敗退。さらに迫る幕府軍を迎え撃つため、後藤基次は道明寺村周辺で迎え撃つことを提案し、その作戦が決定されます。

・道明寺の戦い
5月1日。後藤基次ら6400の兵が大阪城を出発。
5月5日、河内国平野で毛利、真田の部隊とともに野営。翌日の明け方に道明寺村付近に集結し幕府軍を迎え撃ちました。

しかし基次指揮する2800の部隊は真田、毛利の部隊よりも先に行き過ぎてしまいました。霧のせいで真田隊が遅れたともいいます。

孤立したことを知った後藤基次は小松山に布陣、単独で幕府軍と戦います。後藤隊は幕府軍に包囲されましたが、激しく抵抗し包囲する幕府軍が崩れかかります。堀直寄、伊達政宗、水野勝成らの部隊が到着し、小松山に攻撃を仕掛けます。

後藤隊は何度も行われる攻撃を防ぎましたが、限界が見えたため。基次は山を下りて最後の突撃を決意します。

そして、後藤基次は伊達軍へ突撃し銃弾に倒れたのでした。

 

 

 

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