豊臣秀吉の家臣。
平野長泰は賤ヶ岳七本槍の一人。
しかし、他の七本槍のメンバーに比べると
あまり出世したとはいえません。
でも、その家系は旗本になり明治まで残りました。
平野長泰とはどのような武将なのか調べてみました。
平野長泰とは
平野氏の祖先は鎌倉時代の北条家に繋がるともいわれます。
平野家は尾張国平野村を治めていました。
祖父の平野賢長の時代に織田信長に領地を奪われます。
父は平野長治。公家の舟橋宣賢の息子ですが、平野家に養子にはいったといわれます。
織田信長に仕えました。
長泰は寛永2年(1559年)、尾張国津島の生まれ。通称は権平。
信長の死後、秀吉と柴田勝家が対立します。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦します。
身分が低かったので、部隊を率いていたわけではないようですが。
得意の槍で、柴田勝家の秦奉行をしている小原新七を討ち取ります。
その戦いの最中に、横槍を入れてきた松村友十郎も討ち取りました。
その功績で、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、片桐且元らとともに、賤ヶ岳七本槍のひとりにあげられます。
小牧長久手の戦いにも参戦。活躍しました。
文禄4年(1595年)、大和国十市郡田原本に5千石を与えられます。
中国攻めをはじめ秀吉の行った戦にはほとんど参戦しています。
慶長2年(1597年)には、従五位下遠江守の官位を与えられ。豊臣姓を与えられました。
でも石高は増えません。
その理由はわかりません。
性格が荒々しくて、秀吉のいうことを聞かなかったとかともいわれます。
石田三成とは仲が悪かったとも言います。
豊臣姓まで与えられた長泰です。
秀吉もその働きを評価をしてなかったわけではないでしょう。
でも長泰は領地を欲しがってはなかったのではないでしょうか。
大名になって大勢の家臣を召抱えて領地経営するよりも、戦場で槍を使って働いているほうが性に合ったのかもしれません。
関ケ原の戦い
関ヶ原の戦いでは東軍に付きました。
尾張出身で武断派の長泰は、石田三成達とは合わなかったのでしょう。
第二次上田合戦で時を浪費し関ヶ原に間に合わなかった徳川秀忠に従っていました。
そのため、たいした活躍はできませんでした。
賤ヶ岳七本槍の加藤清正、福島正則が大名になったのとは対象的です。
大坂の陣では豊臣秀頼に合流するつもりでした。
ところが、その考えが徳川家康にばれてしまいました。
自分から話したとも言います。
もちろん家康は行かせるはずがありません。
江戸の留守番を命じて封じ込めてしまいます。
でもそれ以上の処罰はありませんでした。
平野家は旗本として続きます。
明治になって田原本藩となりましたが、直後の廃藩置県が行われます。
大名でいられたのは3年でした。
しかし、賤ヶ岳七本槍の加藤清正、福島正則らが大名になりながら、大名家として続かなかったのに対し、平野家は旗本でしたが明治まで続きました。
それはそれでよかったのかもしれません。
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