忍者集団・透破のリーダー 出浦 昌相(いでうら まさすけ)。
大河ドラマ真田丸で真田昌幸を裏切るとみせかけて、じつは裏でつながっていたという曲者ぶりを発揮。
演じる寺島進さんの風貌もあって、いかにも歴戦のひとくせありそうな人物という印象がしますね。
いったい出浦 昌相ってどんな人なのでしょうか。
出浦 昌相とは?
出浦 昌相は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将です。出浦 盛清(いでうら もりきよ)ともいいます。天分15年(1546年)信濃国の生まれ。
甲州透破のリーダー的存在でした。いわゆる忍者ですね。
部下の忍びよりも先に偵察を行い、部下が嘘を報告をすると見破ったという逸話があります。
もともとは信濃の村上義清に従っていました。
武田晴信(信玄)よって村上の勢力が信濃から撤退すると、武田氏に仕えました。武田家滅亡後は森長可に仕えました。
森長可は武田家を滅ぼした織田家の重臣です。
本能寺の変で織田信長が死ぬと、信濃の国衆は一斉に森長可に反旗をひるがえします。でも出浦昌相だけは森長可に従っていました。森長可が信濃から脱出しようとする森長可を助けています。
もともと透破というのは独立した忍び集団で、村上家、武田家と仕えてきました。自分達の能力を高く買ってくれるなら仕える。傭兵集団のようなものなので一度雇われたら仕事は最後までやるというポリシーがあったのかもしれません。忠誠心というよりもビジネスライクな関係だったかもしれません。
その後は真田家に仕えました。岩櫃城の城主をつとめることもありました。
豊臣秀吉の小田原攻めのときには、忍城攻めで手柄を立てています。
関が原の合戦以降は、真田信之に従いました。以後は出羽対馬守と称しています。
真田家が江戸幕府の命令で上田から松代に移ることになったとき。信之は出羽昌相対馬守にあてて手紙を出しています。「子孫のためだから、命令にしたがって松代に行くしかない。心配しないで欲しい」という内容のことが書かれていました。信之が自分の心中を書いて送っていることからも信頼が厚かったことがわかります。
松代真田家では武者奉行になっています。真田忍者の首領といったところでしょうか。
78歳まで生きました。
透破(すっぱ)とは?
戦国時代には、各地の戦国大名が忍者を雇っていました。当時は透破(すっぱ)とか乱破(らっぱ)とよばれることが多かったようです。
現代人の考える忍者とは違って、自ら積極的に戦うことはありまませんでした。敵地に潜入して情報を集めるのが主な仕事でした。スパイのようなものです。ときには破壊工作や暗殺を行うこともありました。姿は忍者映画であるような黒装束ではなく、一般人にまぎれても分からないような地味な格好をしていることが多かったようです。
武田信玄は忍者をよく使ったことで知られます。武田氏に仕えた忍者で有名なのは甲州透破です。
マスコミが政治家や芸能人の情報を突然報道することを「スッパ抜く」ということがありますが、その語源になったともいわれます。
戦国時代の忍者集団というのは、家臣として仕えるというより雇われているといったほうがよいでしょう。金で雇われる傭兵集団の様なイメージです。野武士や盗賊出身のものもいて忍者集団をまとめるのは並大抵のことではありません。
真田十勇士には忍者が登場します。真田十勇士は架空の物語ですが、真田家が優秀な忍びの集団を配下においていたことは間違いありません。もしかすると、出浦達の活躍が後の物語に影響を与えたかもしれません。
そんな忍者集団も戦国時代が終わると、あるものは歴史から消え、あるものは家臣として大名に仕えることになります。
出浦家は江戸時代になっても真田家に仕え、家老まで出す家柄となります。
忍びは平和な時代になると一部を除いて活躍の場はなくなっていきました。武士として大名家に仕えるという選択をしたものもいる一方で、仕事を失い無法者となったものもいます。
出浦家は新しい時代にうまく対応して生き延びたのでした。
コメント