真田家重臣・河原綱家。
あまり有名ではありませんんが。
真田家にとっても重要な家臣です。
昌幸時代にはときどき名前がでてきます。
昌幸に歯を折られたかと思えば、
渋い活躍をしたり。
地道に真田家を支えた河原綱家とはどんな人物だったのでしょうか。
河原綱家(かわら つないえ)とは
父は河原隆正。真田幸綱(幸隆)の正室・恭雲院(とり)の兄です。
綱家と真田昌幸は従兄弟になります。
河原家は滋野・海野氏の家臣でしたが、海野家が没落した後は真田家の家臣となりました。
綱家の綱の字は真田信綱より与えられたものだといわれます。
真田家にとって重要な家臣だったことがわかります。
生年はよく分かりません。真田昌幸よりも年上だったといいます。
綱家は三男。
綱家の兄は長篠の合戦で討死しました。
河原家を継いで真田家の家老となります。
兄を失って真田家を継いだ昌幸と境遇が似ています。
天正元年(1582年)、武田勝頼は織田・徳川・北条の連合軍に追い詰められ、新府城を放棄します。このとき、昌幸の妻子が新府城を出てて岩櫃城にもどることになりました。
綱家は一行を護衛して岩櫃城まで送りとどけました。
1587年には上野国吾妻郡の代官として領地を治めていました。
慶長5年(1600年)、徳川家康は上杉討伐のため兵をあげました。
その中に真田昌幸・信幸親子もいました。
7月21日上野国犬伏で石田三成が挙兵した知らせがとどきます。
昌幸・信幸・信繁の親子三人は寺にこもり相談をします。
しかしなかなか出てきません。
気になった綱家が中を覗くと
「入ってくるなといったはずだ」と昌幸に下駄を投げつけられ
前歯が折れてしまいました。
その後、綱家は大坂城に向かいます。
関ヶ原で石田三成が負けたことが大坂に伝えられられると、
山手殿を救い出して上田まで送り届けました。
関ヶ原の合戦後は真田信之に仕えます。
九度山に幽閉されている昌幸のもとへ品物を送る役目を務めたこともあります。
子孫は代々真田家の重臣を勤めます。
幕末期には真田家に関する記録をまとめました。
現代でも貴重な研究材料になっています。
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