青柳清庵と三井仁左衛門・真田信繁に最後まで従った武将達

真田昌幸の死後、一周忌を過ぎると13人の家臣が上田に戻りました。
信繁のもとに残ったのは3人だったといいます。

高野山蓮華定院書上によると残った家臣は以下の3人です。

青柳千弥
三井豊前
高梨采女

高梨内記については昌幸・信繁に従った重臣であり娘が信繁に嫁いでること。内記が真田大助のもりやくだったことから残ったと思われます。

高梨内記についてはすでに紹介しました。
高梨内記・大坂の陣で果てた真田信繁の義父

このページでは他の二人について紹介します。

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青柳清庵頼長

高野山蓮華定院書上にある青柳千弥です。
松代藩の資料・滋野世記にある青柳清庵と同一と考えられています。

天文19年(1550年)の生まれだといいます。

青柳家はもともとは信濃の村上義清の家臣でした。しかし、武田信春が村上義清と戦った時、真田幸綱(幸隆)の跳躍で武田方に寝返りました。以後は真田幸綱とともに転戦します。

武田勝頼が亡くなった後は、真田昌幸の家臣となりました。重臣の地位にあったともいわれます。

関ケ原の戦いのときは、上田城で昌幸らとともに戦ったといいます。

関ケ原の戦い後、昌幸の高野山行きに同行しました。九度山村に個別の屋敷を与えられ暮らしたといいます。

昌幸亡き後も九度山に残りました。

大坂の陣が始まった慶長19年(1614年)には65歳になっていました。
すでに高齢の身ながら、信繁の大阪入りに同行しました。どうせ死ぬなら

大坂の陣では大いに働き戦死したということです。

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三井仁左衛門景国

高野山蓮華定院書上では三井豊前。
松代藩の資料・滋野世記では三井仁左衛門と書かれています。

真田幸綱(幸隆)の叔母が三井家に嫁ぐなど、三井家は真田家の古くからの縁戚にありました。

景国は慶長5年(1600年)の第二次上田合戦で初陣を迎えたといいます。

その後、昌幸が高野山に行ったときは同行しました。
昌幸の死後も残り、信繁ともに大阪城に入ってます。

大坂夏の陣では鉄砲隊を率いて戦ったといわれます。
5月6日の道明寺の戦いで負傷したため戦線離脱。5月7日の信繁の最後の突撃には同行できませんでした。

京で療養生活を送りました。西本願寺で匿われたといいます。
その後は山科や京で暮らしました。
三井景国の祖父・三井宗忠の妻が本願寺と関係の深い下間頼重の娘だったことが関係していると思われます。

景国の家臣が大八を送り届けた?

景国が京で療養中のことです。
大阪城落城後に京の伊達屋敷に大八達、信繁の子供が送り届けられました。送り届けたのは我妻佐渡(我妻与惣左衛門)と西村孫之進といわれます。この二人は三井景国の家臣だと名乗りました。孫之進達も真田隊の一員として道明寺の戦いに参加していました。本当に三井景国と主従関係があったのか、それとも共に戦った仲だったのかはわかりません。三井家もそれなりの家柄だったようなので足軽クラスの兵が仕えていたかもしれません。

我妻与惣左衛門は江戸の仙台藩邸、白石城まで同行し片倉家の家臣になりました。
西村孫之進はしばらく江戸で暮らしたあと岡山藩主・池田光政に仕えました。

我妻佐渡か西村孫之進を通じて、大八と阿梅が仙台藩にいることを知ったのでしょうか。

三井景国は真田大八につかえることに

景国は1619年に真田大八、阿梅を匿った白石城(宮城県白石市)の片倉重長を訪れました。礼を述べると片倉家の家臣となりました。

このとき景国が突然片倉家を訪れたのではなく以前から面識があった可能性もあります。片倉家では大八を匿ったあと、大八が京で死んだといううわさを流したといわれています。景国はその活動にかかわっていたかもしれません。旧豊臣方の浪人の仕官が解禁されたのちに片倉家に移ってきたとも考えられます。

その後は片倉守信と名を変え、仙台藩士となった大八に仕えたといいます。

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