真田信幸・兄は弟以上に活躍した戦国武将だった

真田家

真田信幸(信之)ってあんまり有名じゃありません。

信繁(幸村)の兄というくらいしか知られてなくて、弟や父に比べるとなんとなく影の薄い存在。

知略を駆使して大大名相手に生き残りのサバイバルを行った父・真田昌幸。
大坂の陣で奮闘し、有名になった弟・真田信繁(幸村)

彼らに比べると地味な存在に思ってませんか?

NHK大河ドラマ「真田丸」では、大泉洋演じる真田信幸はまじめて面白みにかける常識人として描かれています。

弟・信繁の天才ぶりと対称的に描くことでキャラクターの違いを表現しようとしているのでしょう。

でも、信幸は真田家にとっては重要な人物なんです。 真田家は大名として幕末まで残りますが、それができたのは信幸のおかげです。

大坂の陣しか目だった活躍のない信繁に比べると、16,7のころから部隊を率いて戦い手柄をたてた信幸は戦国時代には父・昌幸とともに名前の知られた武将でした。

日本人の好きな滅びの美学を身をもって表現したのが信繁なら。
組織の生き残りのために自己主張を棄てても最善を尽くすのが信幸の生き方といえます。

江戸時代になると「信濃の獅子」と呼ばれて大名達から尊敬を集めた信幸。

地味だけど現実的に考えれば実は一番重要なことなんじゃないかと思えることを地道にやった人。

そんな真田信幸について調べてみました。

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真田信幸とはどんな人?

信幸は、普段はおとなしく優しい人物でした。戦になると前線に立ち、部隊を率いる統率力と豪快さも併せ持っていました。残された鎧や武具から当時としては長身の180cm近い大男だったと考えられています。

誕生から武田家滅亡まで

真田信幸は、永禄9年(1566年)武田家の家臣・武藤喜兵衛(真田昌幸)の長男として生まれます。 ってことは「真田丸」の冒頭、武田家滅亡(1582年)のころには16歳だったってことですね。

真田昌幸、武田家滅亡までの歩み に書いたように、父の昌幸は三男でした。

養子に出て武藤家を継いでました。長篠の戦で二人の兄が戦死したことから真田家を継ぎました。 ちなみに、弟・信繁は永禄13年(1570年、1567年の説もありますが)ですから、12~15歳!ってことになります。 それを考えると、ドラマの信幸、信繁はずいぶん老けてますね。

もちろん当時の16歳は大人です。今の20歳よりももっと大人びていたでしょう。 しかも信幸は当時の真田家嫡男です。弟の信繁よりもしっかりしていないといけないという気持ちは強かったはずです。

当時の大名は家臣の裏切りを防ぐために妻子を城下に住まわせていました。江戸幕府が大名の妻子を江戸城下にすまわせたのと同じです。

信幸は武田家に人質として出されます。母の山手殿(劇中の名前は薫:高畑敦子)と共に甲府や新府城で暮らしました。

弟の信繁は父・昌幸とともに岩櫃城にいたという説がありますが。一般的には新府で人質生活をしていたとされています。

ドラマでは新府にいた説を採用していますね。元にする資料によっても幾つか説があるのでドラマによって変わってくるのは仕方ないと思います。

武田勝頼が新府城を放棄したときには、人質から解放され母とともに父の居城である岩櫃城を目指します。 その後は、父・昌幸のもとで働きます。

 

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北条・徳川相手に活躍した信幸

北条戦では800の兵で城を奪還

武田家亡き後、信幸は真田家存続のために働きます。

親しかった前田利益(慶次郎)から信長が本能寺で死んだことを聞かされたといいます。

前田利益は母が再婚したので前田姓を名乗ってますが、もともとは織田軍として武田家亡き後の旧武田領を支配していた滝川一益の一族でもあります。前田家を出奔した利益は一時期、滝川一益の元で働いていた時期がありました。そのときに知り合ったようです。

織田信長亡き後、旧武田領は周辺大名達が領地争いをする混乱の時代となりました。天正壬午の乱といいます。

天正10年(1582)年、北条氏が上野国の支配をもくろみます。

北条氏は富永主膳の部隊を派遣。真田氏の領地であった手子丸城に責めてきました。

当時17歳の信幸は800の兵を率いて、救援に向かいますが間に合いませんでした。

城を守る大戸親子(兄弟との説も)は討死。手子丸城は占領されていました。 城を占領する富永軍は5000といわれています。あきらめて帰っても不思議のないところですが。信幸は城の奪還を目指します。

まずは城の周辺を守る部隊を挑発して攻めてきたところを伏兵に攻撃させて壊滅させます。真田氏がよく使う手ですね。守りの薄いところを調べると手下の工作部 隊を城に忍び込ませます。デマを流したり放火したりして相手が混乱しているところに、信幸の軍が突撃。真田軍にも被害は出ますが城の奪還に成功しました。

このとき信幸の部隊と戦った富永主膳は北条滅亡後も生き残り江戸時代には槍奉行の役目をつとめていました。このときの様子を思い出しては「自分を破った真田信之はたいしたやつだ」と周囲に話していたといわれています。

他にも、昌幸と共に真田家に敵対する室賀氏を謀殺したり、真田の領地を狙う北条氏を撃退したりと嫡男にふさわしい活躍をみせます。

 

上田合戦では徳川軍の敗北を決定づける活躍

 

天正13年(1585年)、沼田をめぐる領地問題で徳川ともめて上杉に寝返ると、徳川軍が上田に攻めてきました(第一次上田合戦)。そのときには、父・昌幸の指揮の元で徳川軍と戦いました。

このとき、信幸は300の兵を連れて上田城のある平地を見下ろせる山に立つ砥石城に布陣します。上田城に誘い込まれ被害を出した徳川軍が上田城から出てきた ところに側面から追い討ちをかけ徳川軍を混乱におとしいれます。さらに従兄弟の矢沢頼康の部隊と共に追撃し、徳川軍は増水した川に追い込まれて多数の溺死 者を出します。

この戦いで真田軍は勝利し徳川軍は撤退しました。信幸は真田軍の勝利に貢献します。

 

第一次上田合戦からあとの信幸

その後、真田家は上杉をとおして豊臣秀吉に従います。

天正17年(1589年)豊臣秀吉の仲介で徳川家康とも和睦します。 信幸は徳川家に人質として出されます。徳川家の家臣として家康に仕えるという表現の方が適切かもしれません。

本来なら徳川を裏切り、徳川軍を一度は敗北させた真田家ですから、徳川家中での信幸の立場はつらいものがあってもおかしくはありません。

でも徳川家康は信幸の上田合戦での働きぶりを家臣から聞いていました。真田家独立から北条、徳川との戦いで前線に身をおき実績もあります。 信幸を才能のある武将と考えていたようです。

重臣・本多忠勝の娘・小松姫との縁組をまとめて信幸を徳川の一員にとりこむことにしました。豊臣秀吉の提案もあったといいますが、家康も信幸と直に会って気に入ったといいます。このとき、小松姫をいったん家康の養女にして信幸に嫁がせました。つまり、信幸は徳川家と親戚になったということになるのです。

それほど真田家を味方にしたいと考えていたということでしょう。

武勇を重んじる本多忠勝も信幸を高く評価していたといいます。

天正17年(1590年)におきた小田原の北条攻めでも信幸は手柄を立てます。この戦で沼田が正式に真田家のものとなり、信幸は沼田城主となります。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のときには、朝鮮出兵の拠点である肥前名護屋城まで行きました。東国の兵が出兵する前に秀吉が死去したため、信幸は朝鮮には行っていません。

しかし、秀吉の死が真田家の運命を大きく変えることになります。

この続きは後ほどすることにいたします。

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