大河ドラマ「真田丸」で話題の「真田幸村(信繁)」戦国武将の中でも、特に人気の高い武将です。
江戸時代から庶民に人気がありました。でも、知名度のわりに意外と知らない部分もある武将です。
名前もそのひとつ。実は真田幸村というのは架空の名前だって知ってましたか?
いまさらだけど、真田幸村(信繁)についてまとめてみました。
真田幸村という武将はいなかった?
いきなりですが。歴史上、真田幸村(さなだ ゆきむら)という武将はいないんですね。
生前は真田幸村とな名乗ったことはないんです。
本当の名前は「真田 信繁(さなだ のぶしげ)」。
既に大河ドラマ「真田丸」でも信繁になってるので、知ってる人も多いと思います。
幸村の出典は江戸のベストセラー「難波戦記」
じゃあ何で真田幸村という名前で呼ばれてるのかというと。
後世に作られた物語で広まったんですね。
江戸時代1672年に出された「難波戦記」がいまのところ一番古い作品です。真田十勇士につながるような、忍者が登場するのもこのあたりから。
物語で幸村という名前が使われたのも、あからさまに実名を使うと著者が処分される可能性があるから。
大阪の陣で徳川に味方した武将からも、真田の戦いぶりには賞賛の声があがるほど。でも同じ時代の武将たちは真田左衛門佐と呼んでいました。信繁という名前は一族か、主従関係を結んだ主しか使わない名前だったからです。当然、庶民は「真田」は知っていても「信繁」の名を知るはずがありません。
公式文書にまで載ってしまった「幸村」
でも「幸村」の名前が広まってしまったので、幕府や松代藩の資料にも「幸村」の名前が採用されてしまいます。
大阪の陣で「幸村」に改名したする資料もありますが。この資料も大坂の陣から200年も後に作られたもの。
江戸時代のことです、松代藩に幕府から幸村について「真田幸村という人物がいたのか?」と質問がありました。松代藩では「うちには信繁というものはいましたが。大坂城に入った後に名乗ったんじゃないですか」と回答したとか。
そうなると松代藩でも引っ込みがつかなくなったのか、松代藩が作った文献でも幸村の名前を使ってしまいます。江戸時代後半に作られたといわれる松代藩の資料には、藩祖・真田信之が弟・幸村を語るという内容の文献があります。その文書の中では信之が弟を幸村という名前で呼んでることになってます。もちろん信之の時代に作ったのではありません。江戸時代後半に作られた資料です。
家老の家では「真田信繁」の署名が入った手紙を家宝として保管してるにも関わらず。「幕府が言ってるなら、合わせとかないとまずよね」と思ったのでしょうか。
娯楽作品では本名はご法度
江戸時代の庶民が見る大衆演劇では真田という苗字も使わずにまったく別の名前が使われることもありました。
江戸時代も中ごろになって平和な世の中になると、武士に対する庶民のイメージが悪くなっていきます。武士のイメージアップのため、さかんに「忠義」というものが強調されるようになります。「赤穂浪士」がただの罪人とした扱われなかったのも「忠義」をまっとうしたからです。
「真田幸村」も「忠義」の精神を広めるためには悪くないことだ。というわけで幕府の規制がしだいにゆるくなったといわれます。その中で「真田幸村」の名前は真田に仕える勇士と共に広まります。
明治に入って徳川幕府の規制がなくなると真田伝説は最高潮を迎えます。十人に膨れ上がった勇士をひきつれて大活躍する真田幸村のイメージが完成しました。
ここで完全に「真田幸村」の名前が定着してしまったんです。
明治以降の作家もその流れで真田幸村の名前を使い続けました。「十勇士」は荒唐無稽だという作家も、幕府や松代藩の資料に名前のある「幸村」の名前は信じて使い続けたのです。その作品を見た人も「幸村」だと信じ込んでしまいました。
一度世間に広まったものは、もう取り消すことができません。現代でも「幸村」になってます。みんなが信じれは「本当のこと」になるんですね。
大坂の陣で改名した?
研究者の中には、幸村の名前の入った書状が見つかった。だから生前に幸村という名前を使っていたと主張する研究者もいます。ちなみにその書状は偽物との説が有力です。
例えば、作家の童門冬二のように本名は”真田幸村”とする人もいます。幸村は日ごろから武田信繁(信玄の弟)を尊敬していた(と童門氏は考えてる)。それを踏まえたうえで、こう述べています。
畏敬思慕の念が自然に「信繁」と署名させたのではないだろうか。
中略
配流13,14年で身辺もかなりさびしい。「手紙の署名に尊敬する信繁様の名を使っても」という気持ちがわいたのでは、と思うのだ。
童門冬二,「日本一の兵”真田幸村の義とは」,歴史人.2016.2月号より。
信繁が生まれたのは1567~70年。武田信繁が川中島の合戦で討ち死にしたのは1561年。真田信繁は武田信繁に会ったことないはずですが。童門氏は会ったことがあると思ってるようです(昌幸のイメージと重なってる?)。こうなるとどこまでが想像なのかわかりませんね。もちろん小説ならそれでいいんです。
一部の歴史ファンの間で人気なのは大坂の陣で幸村に改名したという説。
でも、信繁が大坂冬の陣の休戦後に小山田茂誠へむけて出した手紙には「信繁」と書いてますが。真田家の人々に対しては「信繁」で通したのでしょうか。
あるいは大坂夏の陣で改名したか。
いずれにしても名前だけをみても様々な想像をかきたてられるのが真田信繁なんですね。それだけ人々を惹きつける何かがあるのでしょう。名前にまつわるミステリーはまだ続きそうです。
なぜ幸村にしたのか
幸村の「幸」というのは真田家とその祖先の海野家が代々受け継ぐ漢字(通字)です。
だから、兄・信幸、父・昌幸(家督を継ぐ前は喜兵衛)、祖父・幸隆と名乗ってるんですね。
「村」というのはよくわかってません。
いろいろな説がありますが、これといった有力な説はありません。
幸村の本当の名前
幸村の本当の名前はこうです。
諱 :信繁(のぶしげ)
官名:左衛門佐(さえもんのすけ)
通称:源次郎(げんじろう)
幼名:弁丸(べんまる)
法名:好白(こうはく)
当時の人々は本当の名前を言うのは失礼だとする習慣がありました。
諱(いみな)あるいは忌み名といいます。
諱で呼べるのは、親か主君だけ。
信繁という名前は武田晴信(信玄)の弟・武田信繁にあやかって付けたともいわれます。
武田信繁は本陣で構える兄に代って戦場では先頭に立ち軍団の指揮をしました。川中島の戦いで劣勢のなか奮戦しましたが、討死しています。自身も有能な武将だったのはもちろん、調停役としても能力が高く、武田家中からの人望が厚かったようです。信繁が生きていれば信玄と息子の義信が不仲(謀反の企て)になることもなかったといわれるほどです。
信玄と対立していた上杉謙信も信繁の死を惜しんだということです。
昌幸は武田信繁の様な、兄を助け家臣からも慕われる武将になってほしいと源次郎にこの名をつけたのでしょう。
普段は通称を使います。
幼名は幼いころの名前。元服するまでは幼名を使いますが、元服前に名前が変わる人もいます。
父・昌幸の死後、一周忌に出家して好白と名乗ってます。
同じ時代の武将からは「真田左衛門」とよばれることが多かったようです。
信繁の官位が従五位下 左衛門佐だからです。といってもこの時代は「左衛門佐」というのは形式的なものになっていて、勝手に名乗ることができたみたいです。
昌幸が尊敬する兄・信綱左衛門と同じ「左衛門」と名乗らせたともいわれています。
「真田丸」では「真田信繁」になってます。
最後まで「信繁」で通すのでしょうか。
それとも江戸時代の資料の様に大阪の陣で「幸村」に変えるのでしょうか。
名前に注目するのも面白いかもしれません。
大河ドラマ「真田丸」では「幸村」に?
どうやら大河ドラマ「真田丸」では「大坂の陣で幸村に改名した」説を採用するようですね。
テレビドラマという性格上「幸村」という知名度の高い名前を無視するわけにはいかないんだと思います。
ドラマの中では信繁がどんな思いを込めて「信繁」から「幸村」に変えたのか。名前にはどんな意味が込められているのか興味深いですね。見どころになりそうです。
信之を手放さざるを得なかった父から受け継いだ「幸」の字を信繁が受け継ぐことになります。
大河ドラマ「真田丸」第40話「幸村」に注目ですね。
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