堀川城の悲劇・瀬戸方久と龍雲丸が大ピンチ?

戦国時代。浜名湖周辺の堀川城で戦いがありました。「堀川城の悲劇」と後世に伝わる戦いでは、徳川家康の行った戦としては珍しく農民の惨殺が行われたといわれます。

堀川城といえば、大河ドラマ「おんな城主直虎」で気賀を見張るための城として作られたという設定で登場します。

ドラマでも重要な場所になるのは間違いありません。歴史上の堀川城とはどのような城で何が起きたのか紹介します。

堀川城とは何なの?

堀川城は遠江国(静岡県)の気賀にある砦です。城といっても現代人が想像する天守閣を持った城ではありません。柵で囲まれた陣地のようなものです。

堀江城を守る支城のひとつとして堀川城はつくられました。支城は敵が本拠地にたどり着くのを防ぐための前線基地です。

堀川城跡は現在は田んぼの中にありますが、当時は沼地でした。都田川を外堀として利用した守りの固い城でした。もともとは伊達忠宗によって作られた砦だったといわれます。

浜名湖周辺は今川方の武将・大沢基胤が守っていました。大沢基胤は堀江城を本拠地にしています。堀川城は大沢基胤の堀江城を守る支城なんです。

永禄11年(1568年)。堀川城は今川家に従う地元の領主・尾藤主膳為義、竹田高正、山村修理、新田友作らによって城柵が作られました。

浜名湖の潮の満ち引きを利用して、満潮時には船がないと入れません。干潮時にはまわりが沼地のようになり、出入り口は一カ所しかありませんでした。

城主は新田友作が任命されました。友作は祝田出身で寺子屋を経営していたとも、気賀の領主だったともいわれます。城主といえば聞こえはいいですが、一揆軍の大将にまつりあげられたにすぎません。

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堀川城の戦い(堀川一揆)

永禄12年(1569年)。徳川家康が遠江に攻めてきました。

堀川城には今川側の土豪、領民たちが立てこもって抵抗しました。農民が多く参加したので堀川一揆、気賀一揆ともいいます。今川から見ると住民あげての抵抗作戦ですが、德川から見ると一揆の扱いです。

堀川城の戦いと同じころ、德川軍は堀江城にも攻撃をかけていました。堀江城攻撃には井伊谷三人衆の一人・鈴木重時も加わっています。つまり井伊谷には今川を見限っている人たちがすでにいるのです。

德川軍が攻めてきたとき、新田友作は勝てないと思い德川に味方すべきと主張しました。しかし城内には徳政令を出してくれた今川氏真に感謝する農民や地侍も多かったようです。友作は殺されそうになりました。友作は城を抜け出ます。城主といっても権力はなかったのです。

新田友作がいなくなったあとは竹田高正が城主となりました。城に立てこもって德川軍に抵抗しました。尾藤主膳は堀江城に援軍を頼みに行きましたが、堀江城が降伏してしまったで自害しました。

堀川の悲劇

永禄12年3月27日(1569年)。徳川軍は水のなくなる干潮時を狙って一気に攻撃をかけてきました。

徳川軍の突撃に堀川城守りは耐えられません。あっという間に落城しました。堀川城に残った者の多くが德川軍によって惨殺されるか捕まりました。死者1000人、生け捕りになったもの700人といいます。戦いで生き残った人々も捕らえられてしまいました。

9月9日。気賀で抵抗した人々の処刑が行われました。

次郎法師が供養に

南渓和尚と次郎法師は亡くなった人々を埋葬して弔いました。というのも浜名湖周辺には寺が多く、僧侶たちが大勢犠牲になったのです。領主は違っても寺同士は交流がありました。そこで井伊谷から領民や南渓和尚と次郎法師が供養のために来たのです。

当時の次郎法師は今川氏真から井伊谷を取り上げられて領主の座を失っていました。南渓和尚とともに尼として活動していたのかもしれません。

ドラマでは気賀は井伊直虎の治める場所になりました。実際には井伊家と気賀は関係ありません。次郎法師と気賀の関わりは戦いのあと供養に行ったときくらいしかありません。

徳川家康は住民を殺害したのか?

殺戮のイメージがない德川家康ですが抵抗する者には容赦はなかったようです。

一部の研究者の中には実際には切られたのは城を守っていた武士108~184人。農民は釈放させたのではないかという人もいます。家康のイメージを悪くしたくないため少ない数字を主張するのでしょう。

一般には1000人近い人々が犠牲となり、700人近い人々が捕虜になったといわれます。

現代人の考える、農民=非戦闘員は間違い

大河ドラマ「おんな城主直虎」では徳川家康は地元住民を救うために軍を派遣したものの、酒井忠次の独断で住民を殺害したことになってます。しかしこれはありえない展開です。

武士と百姓が分かれていた江戸時代と違い、戦国時代の百姓は戦になれば一般兵になります。しかも戦国時代は容易に武器が手に入る時代。農民でも刀や槍などの武器を持っています。だから兵士と農民の区別は難しいのです。

農民でも武器を持って集団になれば武装勢力になります。江戸時代と違って戦国時代の人々は大名もあなどれない力を持っていました。だから各地で一揆が置きて戦国大名を困らせていたのです。

農民であっても素直に降伏すれば別ですが抵抗すれば許してもらえないことはあります。切った人数を書いてるのは德川方の記録です。その記録には「なで斬り」と書いてます。手柄を主張するために戦果を誇張しているのかもしれませんが、大量に人が亡くなったのは間違いありません。

現代人は農民は非戦闘員だから殺されない。被害にあったかわいそうな人達。と考えがちです。ところが戦国時代はそう簡単にはいかないのです。

兵農分離を進めた織田信長など一部の大名を除けば、戦国武将のもとで戦っている雑兵は普段は農作業をしている領民です。

農民と兵士の区別が簡単には出来ないのが戦国時代なんですね。

遠江の住民にとって徳川軍は侵略者

現代と違って日本はひとつではありません。三河国と遠江国は別の国という感覚です。

遠江でも今川の支配に嫌気がしていた人々は徳川家康に寝返りました。でも徳川も遠江の人にとっては他国から攻めてきた人です。「徳川は嫌だ」と考える人もいます。

現代風に例えれば、浜名湖周辺の人々にとって徳川軍は外国からやってきた得体の知れない侵略者でした。知らない人達がいきなりやってきて占領しようとしたら抵抗します。

徳川家康は岡崎にいた頃、三河一向一揆に悩まされました。住民たちが武器を手にして抵抗する怖さを思い知らされています。ましてや縁もゆかりもない他国の住民を守るために戦ったりはしません。

降伏すれば許しますが、歯向かえば誰であっても切るのは戦国時代の常識なんです。

現代人の感覚では理解し難いことも起こるのが戦国時代なんですね。

徳川家康だから酷いことはしない、というのは江戸時代に広まった徳川家康を神格化する思想の影響なんです。

新田友作は瀬戸方久だったのか?

新田友作は堀川城を出た後、老ヶ谷という場所に隠れ住みました。出家して「法休喜斎」「新田友作入道喜斎」と名乗り静かに暮らしていました。

慶長11年(1606)。喜斎が僧侶の姿で寺に行ったところ、代官に見つかって処刑されました。

新田友作は出家して「新田友作入道喜斎」と名乗ります。そのため瀬戸方久と同一人物ではないか。といわれることもあります。

商人が城主になったという面白い話が作れるため、作り話の世界ではよく同一人物にされることが多いです。

現実には本当に瀬戸方久が新田喜斎だったのかははっきりしません。

瀬戸方久と新田友作の関係についてはこちらでも考察しています。
瀬戸方久は井伊家を支えていた豪商

龍雲党は徳川軍に惨殺された住民の象徴?

大河ドラマでは瀬戸方久と龍雲丸たちが関わる堀川城。龍雲丸たちは具体的なモデルがいたというわけではなく、堀川城に立てこもって戦った領民たちを象徴する存在です。龍雲丸たちは逃げようとしますが、先に徳川軍が来てしまい脱出は失敗します。直虎と対面した時、すでに瀕死の状態でした。