隆清院(たか)・豊臣の血を引く信繁の側室

真田信繁の側室・隆清院(りゅうせいいん)。

豊臣秀次の娘という血筋ながら謎の多い女性です。
隆清院の母は公家の名門・菊亭家の出身だともいいます。

大河ドラマ真田丸では「たか」の名前で登場する女性のモデルです。

隆清院とその一族について調べてみました。

隆清院

隆清院の父は豊臣秀次。
母は秀次の正室一の台御局といわれます。

誕生年は分かりませんが。母が菊亭家出身の一の台だとすると、秀次が豊臣の姓をうけ関白秀吉の後継者として公家の間にも認められだした1586年よりも後ということになります。

秀次は切腹、一の台御局、他の兄弟姉妹も処刑されるのですがなぜか隆清院は処刑を免れました。

母の実家・菊亭家に匿われたのでしょうか?

秀次の娘で処刑されたのは当時9歳だった露月院のみ。隆清院は露月院よりも幼かったと思われます。幼い女児だから見逃されたのでしょうか。

その後、秀次と母一の台御局の菩提を弔う日々を送っていたと思われます。

そんなとき、いきさつは不明ですが九度山で生活していた信繁と出会い側室になったようです。母譲りの美貌に信繁が惹かれたのかもしれません。

真田信繁は秀次と面識があったと思われます。幼いころの隆清院と出会っていたかもしれません。でもこのころの信繁では隆清院を側室にするのは難しかったでしょう。なにしろ関白の娘なのですから。

隆清院と信繁の間には二人の子供がいます。

1604年になほ(お田)を出産。信繁34~37歳のときでした。
つまり、信繁が九度山に来て1~2年の間に知り合っているということです。
このとき隆清院の年は高く見積もっても17歳、実際にはもう少し若かったかもしれません。

慶長19年10月(1614年)。信繁が大坂城に入ったとき、隆清院となほ は大坂城に入ったといいます。

大坂城には秀次切腹の原因となった秀頼がいます。でも、秀次が切腹した当時、隆清院はおそらく幼かったでしょう。父と母が死んだ事情は分からなかったに違いありません。信繁はじめ九度山にいた者も秀頼のことを悪く言う人はいなかったでしょう。

隆清院も豊臣の縁者。どうせ死ぬなら大坂城で死にたいと思ったのかもしれません。

慶長19年(12月)1614年。豊臣と徳川は和睦し、真田丸が破壊され、堀が埋められた大坂城にはもはや勝利は望めません。

このころになると隆清院が信繁の子を宿していることは誰の目にも明らかな状態でした。信繁も脱出を勧めたようです。

この時期、多くの者が大坂城を去っています。城から出るのはたやすかったでしょう。

慶長20年(3月)1615年。隆清院となほは京都嵯峨野で瑞龍院で尼僧をしている秀次の母・とも(日秀尼)のもとに身を寄せました。

その年の7月14日、隆清院は京で左次郎を出産しています。

なおは紆余曲折の末、出羽亀田藩主・岩城宣隆の室となり、お田の方と呼ばれます。左次郎はお田が引き取りました。

隆清院の消息は諸説あります。豊臣・真田の残党狩りから逃れるため転々とし、姉の嫁ぎ先である梅小路家を頼ったともいいます。

隆清院は寛永10年(1633年)に亡くなりました。一の台御局の実家・菊亭家で葬儀が行われたといいます。この葬儀にはお田も使者を送ったそうです。

お田は亀田藩の領内に妙慶寺を建てました。
そこに隆清院の墓碑をおいて供養しました。

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三好 左馬之助 幸信

左次郎は三好の姓を名乗ることになりました。

三好とは祖父の豊臣秀次が三好家を継いでいたときに名乗っていた姓です。秀次の父でともの夫でもある弥助も、秀次が三好家を継いでいた時期には三好吉房と名乗っていました。

真田や豊臣を名乗るわけにはいきませんから、その縁で三好を名乗ることにしたのでしょう。

姉・お田(なほ)の嫁ぎ先である出羽亀田藩主・岩城宣隆に引き取られます。

元服して 三好 左馬之助 幸信と名乗り、以後は亀田藩に仕えました。

享年53。墓は秋田県妙慶寺にあります。

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隆清院の母・一の台御局(徳法院)

隆清院の母は一の台御局(徳法院)。永禄5年1562年の生まれです。
瑞泉寺の資料には享年31とあるので1565年生まれの可能性もあります。

秀次の二人目の正室です。
京都の公家・菊亭 晴季(今出川晴季)の娘です。

はじめは三条顕実に嫁ぎます。
娘のおみや(於美屋御前)が生まれてほどなくして、顕実は死亡しました。

その後は父・菊亭 晴季のすすめで豊臣秀次と結婚しました。
とはいっても菊亭家は公家の名門。秀次が関白秀吉の後継者として認められて以降だと思われます。

秀次が菊亭家と同じ家格になったのは1588年。あるいは秀次が豊臣姓を受けた1586年以降だと思われます。

菊亭 晴季の娘は”一の台御局”と呼ばれました。一の台とは「一の御台所」つまり正室を意味します。

一の台御局は秀次の6~3歳年上の姉さん女房です。

秀次にはすでに正室として若御前(池田恒興の娘)がいました。正室が二人になりました。この時すでに亡くなっていたという説もあります。

この時代「正室は一人だけ」という規則はありません。二人とも正室だったようです。
池田恒興の娘は若御前・若政所と呼ばれていました。若い方の正室という意味なのでしょう。

1595年に秀次切腹のあと処刑された妻子の中に若御前の名はありません。そのときにはすでに亡くなっていたのかもしれませんし、処刑は免れて実家に戻ったという説もあります。

一の台御局は美貌の持ち主だったため、秀次に見初められ正室になったとも言われます。このとき連れ子の 於宮 も側室にしたので、子を犯すとは人にあるまじき畜生の行いだと言ったので秀次の首塚が「畜生塚」と呼ばれたという話がありますが、作り話のようです。

一の台は美しかったので秀吉も側室にしたいと思っていたようです。ところが一の台が拒否し秀次の正室になったので秀次を妬んだともいいます。

文禄4年(1595年)。秀次が謀反の疑いをかけられ切腹しました。
8月2日。一の台御局ら39人の秀次の妻子が三条河原で処刑されます。

一の台御前は一番最初に処刑されました。当時13歳の娘・於美屋御前も処刑されました。

現在、一の台御前と於美屋御前は秀次とともに瑞泉寺に葬られています。

一の台御局の父・菊亭 晴季

菊亭家は公家の名門。摂関家に次ぐ格式の家柄。
豊臣秀吉と関係が深く秀吉に関白となることを進めたのが晴季です。秀吉の関白就任のため働きました。豊臣家との取り次ぎ役として朝廷内でも重要な地位にいました。
しかし、娘を秀次に嫁がせていたため秀次切腹の際に連帯責任をとらされて越後に流罪になりました。
翌、慶長元年(1603年)許されて帰京。秀吉の死後、右大臣に返りざいてます。

菊亭家は今出川家ともいいますが、普段は菊亭と名乗り、大臣になると今出川を名乗りました。

真田信之・信繁の母・山手殿は菊亭 晴季の娘という説があります。
とすると山手殿は一の台御局の姉妹ということになります。一の台御局は信之・信繁や姉・村松殿とほぼ同じくらいの歳です。世代があいません。

しかも公家の名門と信濃の国人領主の真田家では家柄があいません。
菊亭 晴季の娘説の出所は信之が継いだ松代真田家の家系図。江戸時代になって幕府に提出した系図にそう書いてあったのです。身分を高く見せたかったのか、素性を幕府に知られたくなかったのかもしれません。

大河ドラマ真田丸では、秀次の娘”たか”が隆清院をモデルにしてると思われます。
でも、隆清院が信繁の側室になるのはもっとあとの話。秀次が切腹した1595年時点で側室になるのはありえません。

コメント

  1. kasumi より:

    あまり取り上げられることない隆清院のことがよくわかり、とてもありがたかったです。ただ気になったのは若御前のことです。若御前は秀次の元で死亡などせず、生きて実家の池田家に戻っています。秀吉は天下取りの際に味方をしてくれた池田恒興の娘ということで、特別な配慮をしたものと思われます。

    • 文也 より:

      kasumiさんはじめまして。読んでいただきありがとうございます。
      おっしゃるとおり若御前については生きのびたという資料もありますね。
      そうだったのかもしれません。そう思いたいですね。