真田信尹(のぶただ)・陰で昌幸を支える弟

真田家当主となった昌幸を陰で支える弟・真田信尹(のぶただ)。
ドラマでは大胆な外交作戦を考え出す兄に驚きもせず、地道に交渉を重ねて成果を出す信尹。

昌幸に比べると信尹は資料が少なく、詳しい活動はわからない部分もあります。
でも歴史上でも昌幸をサポートしていた様子がうかがえます。昌幸の行った寝返り工作には、信尹の働きがあったといえます。

信尹とはどんな人なんでしょうか、調べてみました。

武田時代の信尹

信尹は真田幸隆の四男。昌幸とは母親が同じ兄弟です。

幼少時代から武田家の人質として過ごしました。
信玄の命令で加津野家の養子となりました。加津野 信昌と名乗ります。加津野家は武田家中では名門でしたから、兄・昌幸同様に信玄の評価が高かったことが分かります。

北条氏との戦では、駿河深沢城攻略で手柄を立てます。

勝頼時代も重要な家臣として仕えます。

武田家滅亡後の信尹

武田家滅亡後は真田姓にもどして、真田信尹と名前を変えます。

しばらくは兄とともに上田にいました。

6月に真田昌幸が上杉に従うと共に従います。7月に昌幸が北条に寝返ったときは、上杉に残りました。情報収集と上杉側の領主の調略を行うためです。

海津城の春日信達の調略には成功しました。信達が北条に寝返ったことが上杉にばれてしまいます。春日信達は上杉景勝によって処刑されてしまいます。

さらに山田右近も調略しようとしましたが失敗します。逆に寝返り工作をしていることが暴露されてしまいます。信尹は上杉にはいられなくなって逃亡します。

山田右近は裏切り者を追い出した功績を認められて、上杉景勝から書状をもらいました。

その後、信尹は公式には真田家にもどることはありませんでした。調略が失敗した責任を取らされて真田家を追放されたことになってます。でも、昌幸の命令で各地の情報収集のため働いていたといわれます。

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大名家を点々とする信尹

まず北条家に仕えました。その後天正14年(1584年)には徳川家に仕えるようになります。昌幸の命令で徳川に潜入したのだともいいます。

昌幸が北条家から徳川家に寝返ったときには仲介をしました。信尹は家康から昌幸の調略を行うよう命じられていたといいます。さらに家康は上杉景勝と交渉し徳川に従うことになった真田を攻めないとの了解をとりつけます。昌幸の目論見どおりというわけです。

豊臣秀吉の小田原攻め以降、徳川家を出て浪人生活を送ります。北条家との戦の褒美に不満があったとも言われますが、詳しいことは分かりません。

池田輝政の仲介で会津の蒲生氏郷に5000石で召抱えられました。でも、氏郷が亡くなりお家騒動がおきて家中が分裂し会津から移動になってしまます。信尹は慶弔3年(1598年)蒲生家を出て、また徳川家に仕えるようになります。一度、徳川家を出たとはいえ甲斐で3000石を与えられ、そのご加増されて4000石になっています。

信尹は昌幸の継いだ真田本家とはほとんど別行動をとっていました。しかし信尹からもたらされる情報は真田本家の舵取りに役立っていたようです。

関が原の戦いや大坂夏の陣では功績をあげて5200石に加増されています。

大坂の陣では豊臣方についた信繁の説得にあたりましたが、成功しませんでした。(信之が行ったという説もあります)

大坂夏の陣で討死した信繁の首を確認したのは信尹だったといわれます。
甥を説得したけどかなわず、討ち取られた首になったのを見たとき、どう思ったのでしょうか。

信尹の子・信政は信繁の娘を妻に迎えました。

その後も徳川家に仕え旗本となります。
子孫は代々旗本として続き、4つの家系に別れました。そのうち2つの家系が明治まで残りました。