真田信之(2)・関ヶ原から上田藩城主へ

慶長3年8月18日(1598年)豊臣秀吉の死去で始まる
その後の混乱が真田家の運命を変えることになります。

真田信幸(信之)は、父・昌幸や弟・信繁との決別を迫られてしまいます。

それまで父に従っていた信幸は、自らが考え家臣たちを率いる立場になるのでした。
信幸の生き残りをかけた地道な戦いが始まりまるのでした。

慶長4年(1599年)伏見に入った徳川家康に従い、
真田昌幸・信繁親子は伏見に留まりました。

このころ信幸は病がちで上田城に残っていました。
伏見の信幸の屋敷は信繁の屋敷の隣に移して信繁が管理することになりました。

慶長4年10月に家康が大坂に移ると他の大名も大坂に移ることになりました。
しかし徳川家康は上杉征伐の命令を出し慶長5年6月16日、大坂城を出発しました。

昌幸、信繁親子も家康に従いました。
信幸も合流し、一行は江戸に到着します。

信幸の独立

家康はしばらく江戸に留まりました。7月19日、秀忠は軍を率いて先に出発しました。
真田親子も従います。7月21日上野国犬伏に到着、一泊しました。

その日。信幸は、信繁とともに昌幸に呼ばれます。
この場で、信幸は父から三成の密書を見せられ三成に味方しようと思うと打ち明けられます。

そのとき信幸は「父上の命令でもあるし、特に家康から恩を受けているわけではありませんが、ここまで従ってきたのです。ここで寝返るのは不義ではありませんか」と言ったといいます。

信幸は昌幸や信繁の説得にも意見を変えませんでした。
一度、家康に味方すると決めた以上それに従うべきだと考えていました。もちろん、家康の家臣・本多忠勝の娘を妻にして徳川家に仕えてきたという経緯もあります。信幸にしてみれば石田三成に対して義理を通す理由はありません。

関ヶ原の戦いは豊臣秀頼対徳川家康の戦いではありません。

石田三成のまとめた反家康勢力と徳川家康を支持する勢力の戦いです。豊臣政権下での派閥争いでした。家康としてはこの機会に対立する勢力は潰してしまいたいという思惑はあったでしょう。でも、このとき徳川家康の立場は豊臣政権の重臣として軍を率いていました。

むしろ三成が謹慎中にもかかわらず勝手に軍を動かしたのです。

信幸としては間違ったことはしていない。家康に味方することに何のためらいもなかったでしょう。

しかし、昌幸と信繁は光成とは多少の縁があり、家康に対する不信感も持っていました。

そうと決まればそれぞれの行動は早いものでした。

昌幸はその日のうちに返事を書いて信繁とともに上田に向かいます。

信幸は犬伏に残りました。
このころすでに昌幸に仕える家臣と、信幸に仕える家臣は決まっていたようです。

信幸も昌幸が寝返ったことを家康に報告しました。信幸の報告は7月24日には家康に届いたといいます。家康は、信幸の報告を受け取るとその日のうちに信幸が裏切らなかったことを賞賛する手紙を出しています。27日には真田家の領地である小県郡を信幸のものとする安堵状を出しています。家康としては真田家の全てが敵にならなかったことにほっとしたことでしょう。

信幸が父の寝返りをすぐに報告したのは真田家を残すためです。こうなってしまった以上、報告しなくても昌幸が寝返ったことはすぐに知られてしまいます。事実、7月23日には足利の小林十郎という者が報告しています。信幸としては、家康に不信感をもたれないように自分は裏切らないという立場をはっきりとさないといけません。

昌幸の判断が正しくて昌幸達が生き残ったのならそれでもいいでしょう。
でも、もし家康が勝ったときに信幸が生き残ってなければ意味がありません。

信幸はそのまま徳川軍と行動をともにしました。
自分の居城である沼田城に対しても昌幸が裏切ったことを知らせたといいますが、定かではありません。

家康は7月28日、小山(栃木県小山市)に諸侯を集め、三成が挙兵したことを伝えたあと江戸に戻りました。9月1日、家康は三成を討つために出陣します。家康の部隊は東海道を進みます。

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第二次上田合戦

家康が江戸に戻った間に秀忠の部隊は中山道を進みました。信幸は秀忠の軍にいました。

9月2日、秀忠は小緒城に入りました。
昌幸の上田城を攻めることにしたのです。

信幸は義弟・本多忠政とともに、昌幸に対して降伏を勧めます。しかし、昌幸は降伏を認めると返事したものの城に立て籠もってしまいます。

5日、返事をまちきれない秀忠は攻撃命令を出します。

信幸は戸石城に立て籠もる信繁に対して城の明け渡しを求めます。真田同士の消耗戦をさけたかったのです。信繁も兄の考えに同意して戸石城は明け渡されました。

信幸は戸石城の防衛を任されました。

秀忠の重臣の中には信幸が昌幸と繋がっているのではないかと疑うものもいました。上田城攻めの最中に味方から裏切りが出ては困るので、信幸を上田城から遠ざけたかったのだとも言われます。

昌幸としても、信幸と戦って兵を失ったり信幸が討死してはせっかく親子を分けてまで徳川に残した意味がありません。それに、信幸が戸石城に留まってくれれば上田城を攻撃する兵力がその分少なくなります。

戸石城の明け渡しは昌幸にとっては想定内のことだったでしょう。

秀忠軍は上田を落すつもりでした。家臣の中にはかつて上田城を攻めて敗退したものもいて強硬派の意見が強かったのです。しかし、昌幸・信繁の立て籠もる上田城を攻撃しましたが城を落とすことはできません。

信幸は秀忠軍が父相手に苦戦している間、戸石城に篭っていました。戸石城は神川合戦と呼ばれる徳川と真田との戦いのとき、徳川軍を迎え撃つために信幸が立て籠もった城でした。今度は徳川に味方して立て籠もることになったのです。なんという運命のめぐり合わせでしょうか。

秀忠が上田城攻略にてこずっている最中のことです。家康から関ヶ原に来るように書状が届きました。秀忠は上田城攻略をあきらめて関ヶ原へ向かいますが間に合いませんでした。

この戦いで、信幸は兵を失うこともなく戸石城も無傷のまま残りました。

関ヶ原の戦いの後、信幸は昌幸と信繁が所有していた領地を全て引き継ぎ、自身の領地だった沼田と合わせて上田藩9万5000石の大名となります。

しかし、上田城は秀忠に歯向かった真田昌幸の城として破壊されます。信幸は徳川家に気を使って上田城の再建はせず、役所を置いただけでした。信幸は沼田城を本拠地としました。

上田城が再建されるのは仙石氏が移動してからになります。

昌幸、信繁に従っていた真田家臣も信幸に仕えることになりました。

信之に改名

信幸は関ヶ原の戦いのあと、名前を信之に改めます。昌幸との決別を表したものでした。でも、身内同士の書状のやり取りでは「信幸」の字を使うこともありました。表向きは徳川幕府に対する忠誠を示しつつも、心の中では親子の縁を切ることはできなかったのです。

父と弟の助命を行う

関ヶ原の戦いのあと、信幸・信繁親子は死罪に決まりました。

信幸はそれを知ると、助命活動を始めます。義父の本多忠勝の助けもあり、信幸・信繁親子は命は助けられることになり、高野山に流罪となりました。

信之は高野山に行く前の昌幸と会い「家康をこのような目にあわせるつもりだったのに」と悔しがる父の姿を見ました。

昌幸が高野山に向かったとき真田家の家臣が共に付いていきます。信之はこれを認めます。信之の命令で昌幸に従ったのだともいいます。

真田家は信之が継ぐとことになったとはいえ、昌幸は父であり前当主。いろんな意味で心配だったでしょう。

しかし、信之には父から受け継いだ上田の領地と真田家を守る役目がありました。

戦とはまったく違う、家と領地を守る戦いが始まったのです。

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