真田昌幸・信繁親子に付き従って九度山に来た家臣達

関ケ原の戦いのあと、真田昌幸・信繁親子は高野山に追放となります。
そのとき付き従った家臣は16人でした。

信繁の家族も付き従ったといいます。

16人いた家臣たちは昌幸の死後13人が上田に戻ってしまいます。彼らは裏切ったのでしょうか?それとも忠義心の低い人たちだったのでしょうか?

そんなことはありません。むしろ真田家に対する忠義心では残った人たちにも負けなかったでしょう。真田家家臣の役目として、当主に最後まで仕えるという勤めを立派に果たしたのです。

真田昌幸・信繁親子とともに高野山に行った家臣

慶長5年(1600年)、紀州高野山行きに従ったのは、
松代藩の資料・滋野世記によると以下の16人とあります。

池田長門、原出羽、高梨内記、小山田治左衛、田口久左衛門、久保田作之丞、関口角左衛門、前島作左衛門、三井仁左衛門、関口忠左衛門、河野清右衛門、青木半左衛門、飯島市之丞、石井采女、大瀬儀八、青柳清庵。

慶長16年(1611年)、九度山で昌幸が死去します。一周忌を終えると信繁は出家して好白と称します。そして13人の家臣が上田に戻ったといいます。

彼らは上田の真田信之のもとへ帰りました。

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上田になぜ帰ったのか

彼らはなぜ上田に帰ったのでしょうか?
昌幸・信繁派から信之派に寝返ったと書かれていることがありますが、そんなことはありません。関ケ原の戦いでは親子がわかれましたが、敵対していたわけではありません。家を残すために分かれたのですから。当時としては仕方なかったのです。事実、信幸は昌幸・信繁の命乞いをし、流罪になった後も開放へむけて活動していました。決して真田家中が二つに分かれていたわけではないんですね。

真田家の当主は昌幸でした。ですから古参の家臣が昌幸に忠義を尽くすのは当たり前です。そして前当主の昌幸が亡くなった後は、現在の当主の信之に尽くすのも当たり前です。

残念ですが、信繁の立場は真田家の次男坊です。真田家当主と比べれば扱いが低くなってしまうのは仕方ありません。

よほど個人的に仕える理由がなければ、真田家当主に仕えるのが筋だからです。現在の当主がいる上田に戻ってしまうのは仕方ないでしょう。

しかも信繁は出家してしまいました。もはや俗世には存在しないも同じです。

信之から派遣されていた?

13人の家臣が上田に戻った時、彼らに対して信之は「父・昌幸存命中の奉公、奇特千万(たいへん感心する)である」と言葉をかけ知行を与えました。つまり九度山から戻った家臣に対して、大名自らねぎらいの声をかけを再び家臣として雇ったわけです。

家臣達の九度山行は、幕府から罪人として扱われた者に大して個人的な忠義心で付いて行ったわけではなかったとのかもしれません。昌幸へ同行したのも家臣の役目として奉公した。それは昌幸個人への奉公だったかもしれませんが。当主がねぎらうということは真田家への奉公ともとれます。

家臣の派遣には信之が人選を行ったともいわれます。もしかすると彼らは真田家臣の役目として前当主の護衛(見張り?)のために派遣されていた。というのは考えすぎでしょうか。

昌幸死後も残った3人の家臣

高野山蓮華定院書上によると残った家臣は以下の3人です。

青柳千弥、三井豊前、高梨采女
滋野世記とは表現が違いますが、青柳千弥は青柳清庵、三井豊前は三井仁左衛門、高梨采女は高梨内記になります。

恐らくこの三人は信繁と特に深い関係だったのでしょう。
三井豊前を除けばいずれも60歳を超える高齢です。内記は娘が信繁の側室となり内記自身も大助のもり役となりました。

信繁個人にも何人かの家臣がつけられたはずで、この3人はそのような人たちだったのかもしれません。

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