信繁が姉・村松殿にあてた手紙

真田信繁の姉、村松殿(松)は弟たちからも慕われる存在だったことはお話しました。

兄弟でたびたび手紙のやりとりをおこなっています。

参考記事:村松殿(松) 信幸・信繁の姉はどんな人?

信繁は豊臣秀頼に招かれて大阪城に入った後も、姉・村松殿や姉の夫・小山田茂誠に手紙を送っています。

死を覚悟した信繁が最後に送ったのが、姉や姉の夫でした。

それほど信繁にとって姉の存在は大きかったのでしょう。

大坂に残る豊臣秀頼を討つために、徳川家康の起こした戦。

慶長19年(1611~12月の間におこなわれた「大坂冬の陣」と呼ばれる戦いでは、信繁は大阪城に造られた真田丸で指揮をとり徳川軍に大きなダメージを与えました。

信繁たちの活躍もあり、この戦いでは豊臣は滅ぼされることはありませんでした。豊臣と徳川の和平により戦は中止となります。

これで平和になったわけではありません。大阪城の堀は埋め立てられ、信繁が情熱を賭けて作った真田丸も壊されてしまいます。

徳川はまた戦をするつもりだ。次に戦になればもう防ぐことはできない。
信繁はそのように考えるようになっていたといいます。

懐かしい人たちに最後に会っておきたいと考えたのでしょうか。

大阪城を囲む徳川軍の中に兄・信之の上田藩もいました。信之の代りに大坂に来ていた甥・信吉の陣を訪れ、懐かしい人々との再会を果たしました。村松殿の息子・小山田もその中にいました。

この時、上田に行く用のある者がいると聞いて、いくつか手紙を書いて預けたといいます。

姉・村松殿に送った手紙もそのひとつです。

信繁が姉・村松殿に送った手紙

信繁が姉に送った手紙の内容はこうです。

前置きのあとに。このように書いています。

こんとふりよの事にて、御とりあひニ成申、われわれもこゝもとへまいり申候、きつかいとも御すいりやう候へく候、たゝし、まつまつあひすミ、われわれもしに申さす候

現代語訳
「今度、不慮のことにて戦になり、我々もこちらへ参りました。気遣い御推量ください。ただし、まずまずの結果になり、我々も死なずにすみました」

思いがけなく大坂に来て戦になったこと。死なずにすんだことを報告しています。

御けさんニて申たく候、あすにかハり候ハんハしらす候へとも、なに事なく候

しゅせんとのニも、さいさいあい申候へとも、ここもと とりこミ申候まま、心しつかに申うけたまハらす候

現代語訳
「会ってお話したいものです。明日には変わるかもしれませんが、何事もなくいます。主善殿(小山田 主善 之知)にも再々お会いしてるのですが、私も取り込んでいるので落ち着いて話すこともできずにいます」

今は平和だけれども、明日にはまた争いが起こるかもしれないという緊迫した心境でいることが想像できます。生きている間に姉に会って話がしたいという思いが伝わります。

上田藩の陣にいる村松殿の息子・小山田 主善 之知には何度も会いに行っていることが想像できます。冬の陣と夏の陣の間の期間は4ヶ月ほどありました。その間にお互いの使者が行き来することはありました。

また、信繁は親戚が徳川方にいるというので、大坂城内でも信繁が徳川に内通しているのではないかと疑うものもいました。そうした気まずい雰囲気の中でずっといるよりも、たまには知り合いと会って過ごすひとときが楽しみだったのかもしれません。

そのあと、あらためて無事にいることを報告しています。姉に心配かけないようにしている心遣いが伝わります。

真田の陣に行ったら、たまたま上田に用があって行く者がいたのでしょう。その場であわてて書いたようです。

最後はこのように結んでます。

正月廿四日 むらまつへ さもんのすけ まいる

これが書かれたのは1月24日。大坂冬の陣の和睦が成立した約一ヵ月後になります。

信繁も姉のことは文章に書くときは「むらまつ」と呼んでいたようです。

「さもんのすけ」というのは、信繁は「真田左衛門佐信繁」と名乗っていたからです。

このあとに送った小山田茂誠あての手紙には「真田左衛門佐信繁」と書いてますが、姉には「さもんのすけ」とだけ書いてます。

親しい人向けの手紙と、改まった手紙では書き方にも違いがあったことがわかります。

武将宛に出した手紙では漢字の多い硬い文章になっているのに対し、女性宛の手紙にはひらがなが多いやわらかい文章になっています。当時は、ひらがなは女性や子供が多く使っていたといわれます。

急いでいたのでこうなったのかもしれませんが、相手によって手紙の書き方を変えている様子がうかがえます。

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手紙が家宝となった

この手紙を受けとった村松殿は、使者に近況を託して信繁に伝えたようです。

姉が無事でいることを聞いた信繁が安心したようすが、茂誠に送った最後の手紙に書かれています。

村松殿と茂誠に送った手紙は、小山田家で大切に保管されていました。

さらにおもしろいのは江戸時代の末期。

信繁の250回忌の年(1863年)に、小山田家ではこの手紙を印刷して一族に配りました。
当時の印刷ですから版木で刷ったものです。

小山田茂誠と村松殿の子孫にとっては、幕末になっても真田信繁の存在が大きかったという証明といえます。

小山田家では今でも信繁の手紙を家宝として保管しているそうです。

信繁の手紙の存在を知ることができるのもそのおかげなのですね。

参考文献

手紙の原文は下記より引用しました。
「歴史人 2月号」,KKベストセラー

丸島和洋,「図説 真田一」,戎光祥出版

コメント

  1. コウイチ より:

    文也様こんばんは。
    先日、長野市松代町にある真田宝物館へ行きましたところ、複製品ではありますが、信繁が村松へ送った手紙が展示してありました。松代町は信之が初代藩主を勤めた街で真田ゆかりの地となっており、今年は大変多くの観光客で賑わっております。全国の皆様が長野県に又、真田に興味を示して頂き、大変嬉しく思います。

    • 文也 より:

      コウイチ様。
      あの有名な信繁の手紙が見られるのですね。いいですね。真田というと上田城や大阪の陣が有名ですが。現代の我々が真田家の資料を見ることができるのも松代で真田家が残ったおかげだと思います。