竹林院(お春)・真田信繁の正室とは

真田信繁の正室は竹林院

少なくとも4人いた信繁の妻の中で最も身分が高く、嫡男を生んだことから。
信繁の正室だとされています。

過去の真田幸村の登場する物語でも竹林院が幸村の妻となっています。

信繁の息子・真田大助の母ですね。


生前の名前は伝わってません。
「お春」というのはNHK大河ドラマ真田丸劇中での名前。
真田太平記では「於利世」という名前になってます。

そんな竹林院とはどんな女性だったのでしょう。

竹林院(お春)とは

名前は「お徳」か「小屋」だといわれています。

竹林院の父は大谷吉継。
竹林院は吉継の妹か養女という説もあります。

豊臣秀吉の家臣で越前敦賀城主。5万石の大名でした。
石田三成とも親しく豊臣家にとっては重要な家臣です。

信繁は大坂城で人質生活をしていましたが、秀吉に気に入られました。
息子のいなかった秀吉は有望な男児をひきとっては身内の様に育てていました。
信繁はすでに元服したころでしたが、将来有望な若者として秀吉の目に留まったのでしょう。

天正18年(1590年)の小田原攻めでは真田昌幸、信繁親子は大谷吉継と共に行動をしています。
小田原攻めのあと、秀吉は信繁に1万9千石の領地を与えたと考えられています。
竹林院が信繁の元に嫁いだのもそのころだと思われます。

信繁と竹林院の婚姻は、秀吉の命令による政略結婚でした。
豊臣家の重要な家臣である大谷吉継と真田家を結びつけることで、真田家を豊臣家の味方に引き込もうとしたといわれています。

吉継と信繁は面識があり、真田昌幸と信繁の領地を合わせれば真田家は信濃に6万石(他に信幸の領地が沼田3万石)ありますから。吉継にとっても悪い縁談ではなかったでしょう。

信繁と婚姻したあとも竹林院は大坂、京で暮らしていました。
秀吉は諸大名の妻子を京に住まわせるように命令を出したからです。

関ヶ原の戦いの直前。
大坂にいた竹林院は山手殿とともに父親の大谷吉継に保護されています。

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関ヶ原のあと

関ヶ原の戦いでは西軍が敗退。
竹林院の父・吉継は自害します。
そのころ、竹林院と義母・山手殿は大坂にいました。
西軍が負けたことが伝わると真田家臣・河原家綱の働きで大坂を脱出。
上田まで送り届けられたといいます。

戦いのあと信繁は高野山に追放されます。

竹林院は信繁に付いて高野山まで行きましたが、女性は高野山には入れません。
信繁らは高野山には入らずに九度山での生活が始まりました。

身柄を預かっている監視役の紀伊藩や、昌幸、信繁の兄・信之からも援助はありましたが、九度山での生活は厳しいものでした。一説には昌幸が浪費癖があったためとも言われています。

伝説では竹林院は真田紐を考案し、家臣に行商をさせて生活費を捻出したとも言われています。ですが絛紐(さなだひも)は当時すでにあったもので、真田家が発明したわけではありません。

経済的には苦しい生活でしたが、竹林院と信繁との間には長男・大助(幸昌)、次男・大八(片倉守信)、阿菖蒲(片倉定広室)、あぐり、おかねが誕生しました。
家庭的には恵まれたといえそうです。
他の側室の子らの面倒もみていたといわれます。

慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の対立が決定的になると、信繁は大坂城に入りました。
信繁の家族は大坂城内に用意された屋敷に移り住んだと言われます。

大坂城落城前に子供らを連れて脱出。

信繁と共に残る大助には、
「再び会いたいのは山々だけれど、私たちの事は案ずることなく父上と生死を共にするように」と言い残したといいます。

紀伊国伊都郡山中に逃げ込みました。娘あぐり、警護の侍3人とともに隠れていたところを、紀伊藩に見つかりとらえられました。

竹林院とあぐりは、京にいる家康のもとに送られました。信繁が秀頼から与えられた脇差と金は没収されましたが、命は助けられ開放されました。

その後は娘のお金が嫁いだ石川家に保護されて暮らしたということです。
慶安2年(1649年)5月18日、京で亡くなりました。
お墓は龍安寺(京都市右京区)にあります(非公開)。