真田昌幸4・第二次上田合戦から最後まで

六連銭
六連銭

 

慶長3年8月18日(1598年)豊臣秀吉が死去が真田家の運命を分けます。

慶長4年(1599年)、豊臣秀頼が大坂城に入り、徳川家康が伏見の屋敷に入りました。
真田昌幸・信繁親子は伏見に残り家康に従っていました。

信幸は上田城に残っています。
伏見の信幸の屋敷を信繁の屋敷の隣に移して信繁が管理していました。

慶長4年10月に家康が大坂に移ると他の大名も大坂に移ることになりました。慶長5年4月ごろには昌幸・信繁は大坂に移りました。

しかし、徳川家康は上杉征伐の命令を出し慶長5年6月16日、大坂城を出発しました。
昌幸、信繁親子も家康に従いました。信幸も合流し、一行は江戸に到着します。

 

犬伏の別れ

 

家康はしばらく江戸に留まりました。7月19日、秀忠は軍を率いて先に出発しました。真田親子も従います。7月21日上野国犬伏に到着、一泊しました。その日。昌幸は石田三成から書状を受け取ります。徳川家康を討ち取るため挙兵したというのです。

昌幸は、信幸、信繁を呼んで三人で今後について話し合いました。

この場で、昌幸は三成の密書を見せ三成に味方しようと思うと打ち明けました。
しかし信幸は反対しました。信行は徳川家とは縁があります。家康は豊臣の重臣として行動しており信幸としては間違ったことはしていない。家康に味方することに何のためらいもなかったでしょう。

しかし、昌幸と信繁は光成とは多少の縁があり家康に対する不信感も持っていました。

信行と信繁は話し合いましたがなかなか答えは出ません。
あまりにも時間が長かったので川原が様子を見に来ましたが、昌幸は「見るなといったはずだ」と言って下駄を投げつけたといいます。

結局、昌幸と信繁は石田三成に味方し。信行は家康に味方することになりました。そうと決まればそれぞれの行動は早いものでした。

昌幸は密書を受け取ったその日に返事を書いて出しています。
昌幸・信繁は自分達の部隊を率いて上田に向かいます。

信幸の部隊は犬伏に残りました。このころすでに昌幸に仕える家臣と、信幸に仕える家臣は決まっていたようです。

 

沼田城に入れない

 

昌幸と信繁は自分たちの居城である上田城へ向かいます。
家康の追っ手を避けるため、進軍しやすい中山道を通らずに山中を走り抜けました。

途中、沼田城で休憩をとろうとしました。
でも沼田城に入れてもらえません。

沼田城内では、親子三人が一緒に行動しているはずの真田の部隊に信幸がいないことを不審に 思っていました。

怒った昌幸の家臣が門を激しく叩くと、鎧を着た小松姫が壁際に姿を見せていいました。
「父上とはいえ、今は敵。入ろうとするなら討ち取るまで」と言われます。
それに対して、昌幸は「乱暴なまねをする気はない。孫の顔が見たかったのだ」と言います。小松姫は使者を送って正覚寺に案内させました。

その日の晩。昌幸達が正覚寺に移動して休憩ととっていると、兵に守られた小松姫が孫を連れてやってきます。孫との面会を果たした昌幸には城内へ入る理由はなくなりました。

翌朝。信繁は小松姫の対応に腹を立てて「沼田の町に火を放ちましょう」と昌幸に言います。それに対し昌幸は「さすがは本多忠勝の娘だ。あの嫁がいれば真田は安泰だ」と言って上田へと向かいました。

その後、沼田を出る最中にも領民からは妨害を受けたようです。
すでに信幸と昌幸が敵味方になったことは知られていたのかもしれません。

 

昌幸は沼田城に立ち寄ったのは城を乗っ取るつもりだったんじゃないかともいわれてます。

昌幸が本気で沼田城を手に入れるつもりなら、もっと策を使ったでしょう。
本当に休憩したかっただけなのか。できれば沼田も欲しいな、くらいのつもりだったのかもしれません。

 

第二次上田合戦

 

 

上田城に戻った昌幸は徳川軍が攻めてくることを想定して合戦の準備を始めます。
しかし城に攻めてこないのなら、討って出るつもりはありませんでした。
攻撃されたときだけ戦うつもりだったのです。

しかし、中山道の平定を支持されていた秀忠は上田城に攻めて来ました。

まず徳川方についた信幸が降伏を勧めてきました。しかし、昌幸は降伏を認めると返事したものの城に立て籠もって時間かせぎしました。

5日、秀忠軍は攻撃命令を出します。

信幸は戸石城に立て籠もる信繁に対して城の明け渡しを求めます。真田同士の消耗戦をさけたかったのです。信繁も兄の考えに同意して戸石城は明け渡されました。信幸は戸石城の防衛を任されました。

昌幸としても、信幸と戦って兵を失ったり信幸が討死してはせっかく親子を分けてまで徳川に残した意味がありません。それに、信幸が戸石城に留まってくれれば上田城を攻撃する兵力がその分少なくなります。

戸石城の明け渡しは昌幸にとっては想定内のことだったでしょう。

秀忠軍は上田城を落すつもりでした。
昌幸・信繁の立て籠もる上田城を攻撃しましたが城を落とすことはできません。

信幸は秀忠軍が父相手に苦戦している間、戸石城に篭っていました。

秀忠が上田城攻略にてこずっている途中で家康から関ヶ原に来るように書状が届きました。
秀忠は上田城攻略をあきらめて関ヶ原へ向かいますが間に合いませんでした。

秀忠が去った後は、周辺の徳川方の城に攻撃を仕掛けています。

ところが、関ヶ原で石田三成が負けたとの知らせが届きます。
それでも昌幸は降伏せずに上田城に篭って徹底抗戦を主張します。
しかし、信幸の説得でついに開城することになりました。

 

戦いには勝ったが、運命には負けた

 

ところが、関ヶ原で西軍が負けてしまいます。

昌幸は三成たちが負けたことを知っても、
すぐには戦いを辞めようとはしませんでしたが
信幸の説得で開城しました。

昌幸は徳川との戦いに勝ちました。
でも、敗軍の将となってしまいました。

昌幸と信繁は領地を失い処罰されることになります。
特に徳川秀忠は強行に死罪を主張しました。

なんとか信幸や本多忠勝らのとりなしで命は助かりましたが、
昌幸と信繁は高野山に送られることになりました。
上田の領地は信幸が引き継ぐことになりました。

信繁は家族を連れていくことにしましたが、
昌幸は妻のめんどうを信幸にまかせることにしました。
もう一度戻ってくるつもりだったともいいます。

信幸たちと分かれるとき「家康をこんなめにあわせるつもりだったのに」と悔しがったといいます。

十数名の家臣、家族を連れて高野山に旅立ちました。

 

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九度山での生活

 

昌幸と信繁たちは最初は高野山に入りました。

しかし、高野山には女性は入れません。
九度山で暮らすことになりました。

信幸からの仕送りや、紀州浅野藩からの支給もありましたが。
生活はくるしいものでした。

一説には昌幸の浪費癖がよけいに苦しいものにしたとも言われます。

信之たちの赦免活動に期待して、戻れる日を待ちながらの生活でした。

しかし、慶長16年(1611年)、6月4日。上田に戻ることなく九度山村で息を引き取ります。享年65。

 

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