真田昌幸・武藤喜兵衛時代と武田家滅亡まで

六連銭
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大河ドラマ「真田丸」で「草刈正雄」演じる「真田昌幸」

真田信繁(幸村)のお父さん。のイメージで考えがちな武将ですが。
戦国時代、真田家で一番有名だったのは昌幸なのです。
「徳川キラー」ともいうべき真田家の伝説を作ったのは真田昌幸といってもいいでしょう。

武田家の家臣から、独立した勢力へ、徳川、上杉、豊臣といった大勢力の間を渡り歩き、いかにして真田家を残すかに苦労した真田昌幸。

信繁(幸村)が有名になれたのも、真田家が江戸時代まで残れたのも、ある意味 父・昌幸がいたからこそできたといってもいいくらいです。

では、真田昌幸とはどんな武将だったのでしょう。

大河ドラマ「真田丸」では語られることのない、ドラマの前の人生をふりかえってみます。

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ドラマ「真田丸」に至るまでの真田昌幸

幸村の祖父も知略家だった

真田昌幸(まさゆき)は信濃の地方領主真田氏の出身です。

信濃の国では地方領主同士の争いが激しく続いてました。
真田家は昌幸の父・真田幸隆(ゆきたか)の時代に武田信玄の家臣となりました。
幸隆は調略が得意で、武田晴信(信玄)の信濃攻めにおおいに貢献したとされます。
真田家の知略は幸村の祖父の時代から優れていたのです。

信玄時代の昌幸

天文16年(1547年)。幸隆の三男として生まれます。幼名は源五郎。
長兄・信綱、次兄・昌輝も武田家の家臣として仕えました。

真田幸隆、信綱親子は武田二十四将にあげられるほど重要な家臣でした。
武田二十四将はいくつかのパターンがありますが、昌輝、昌幸も武田二十四将に入れられることもあります。
親子が最大4人も二十四将入りというのは真田家だけです。

7歳で武田家の人質として出されますが、若くしてその才能を認められ小姓として仕え信玄にも可愛がられます。

嫡男のいなかった武藤氏の養子になり「武藤喜兵衛」となのります。

真田家には昌幸の上に二人の兄がいますから家督を継ぐのはまず考えられません。武藤氏は信玄の母方の家系なので信玄の親族の仲間入りといえます。三男坊にとっては大チャンス。それだけ信玄の信頼が厚かったということでしょう。

武藤家は甲斐では名門とされていましたが頻繁に家系が断絶していました。信玄の母親の実家・大井氏からも養子が入るくらいでした。

そこで信玄は武藤家を絶やさないためにお気に入りの小姓を武藤家の養子にしました。それが武藤喜兵衛です。

甲斐の人にとっては真田家は征服した信濃の豪族にすぎません。外様です。
でも武藤家は武田家にとっては親戚です。格式も真田家より上です。

昌幸は父・幸隆や兄・信綱よりも信玄に近い立場になったのです。

さらに「奥近習6人衆」に抜擢されます。これは武田家の将来を期待される側近集団です。幹部候補生のエリートコースに乗ったという事です。こうして武藤喜兵衛は将来の武田を支える有望な若手として育成されていました。

初陣は第四次川中島の合戦だといわれています。
以後、北条戦で手柄をたて、武藤家の家督を継いだ昌幸(武藤喜兵衛)はやがて武田家でも重臣クラスの武将となります。

勝頼時代の昌幸

信玄の死後は勝頼に仕えます。
父・真田幸隆もその1年後に死去。真田家は長兄の信綱が継ぎます。

しかし長篠合戦で二人の兄が戦死してしまいます。昌幸は勝頼の旗本として守っていたので無事でした。

信綱の嫡男はまだ幼かったので、昌幸が真田家を継ぐことになります。これには勝頼の重臣・高坂昌信の後押しもあったので勝頼も認めました。以後は真田姓に戻ります。
武藤家は武藤一族の武藤常昭が相続しました。

母方が信濃国出身で自身も諏訪勝頼として信濃国を治めていた勝頼としては真田家が廃れてしまうのは忍びなかったのでしょう。

勝頼にとっては昌幸は大切な重臣です。長篠の戦いで多くの有能な家臣がなくなっていたので、ますます昌幸は勝頼にとって重要な存在になっていました。

長篠合戦後は、主に北条氏との戦で功績をあげ北条氏との和睦が成立しました。昌幸はこの功績により安房守に就任しています。

新府城の築城にあたっては人員の動員を受け持ちしました。築城の責任者だったという説もありますが、はっきりとしたことは分かっていません。ドラマ「真田丸」では昌幸が新府城築城の責任者だったという説を採用しているようです。

1582年。織田・徳川連合軍の侵攻が始まると勝頼に城を捨て真田家が城主を勤める岩櫃城へ入るように進言して、勝頼を迎えるための準備を行います。

でも勝頼は岩櫃城へは向かわず小山田氏の治める岩殿城へ向かいます。小山田氏の裏切りに遭い、勝頼は追ってきた織田軍と戦い死亡、武田氏は滅亡します。

ドラマ「真田丸」の中では小山田信茂が「真田氏は北条氏とつながってるので、岩櫃城へは行かないように」と言います。実は歴史上も真田昌幸が北条氏と接触していたという説もあるのです。ドラマのでっちあげとも言い切れないんですね。

ドラマでは北条氏との接触があったことは昌幸自身も語っています。北条家とのやりとりを思わせる昌幸の書状が見つかっているので、北条家との接触があったのは確かでしょう。

武田家になにかあったときのため受け入れ先のひとつとして連絡をとっておいたのです。じつは、真田家だけでなくほかの領主達も似たようなことはやってました。小さな領主は大きな勢力に従わないと滅ぼされてしまうからです。

武田家臣としても存在感のあるところを見せてきた昌幸ですが武田家滅亡後はますますその知略が冴え渡ります。

秀吉からは「表裏比興の者」。つまり卑怯者、戦国一油断のならない武将といわれた昌幸の真価が発揮されるのはこれからです。

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