鳥羽小枝橋の戦い:鳥羽伏見の戦い縁の地を巡る

小枝橋

慶応4年(1868年)に旧幕府軍と新政府軍との間で起きたのが鳥羽・伏見の戦い。1年近くに及んだ戊辰戦争の始まりですが、明治維新の流れを決定づけた戦いともいえます。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北した結果、新政府軍が優勢となり、江戸城の開放へと時代の流れが大きく変わりました。

一般には鳥羽・伏見の戦いと言われます。実際の戦場は大きく2つに別れます。

淀城を拠点にする旧幕府軍と新政府軍が戦った鳥羽の戦い。
伏見奉行所を拠点にする旧幕府軍と新政府軍が戦った伏見の戦いです。

2つの戦いは近い場所で同じ日に行われたので「鳥羽・伏見の戦い」とまとめられます。でも実際に縁の地を歩いてみると意外と離れていることがわかりました。

歴史の流れを変えた重要な戦いとゆかりの地を巡ってみました。

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鳥羽伏見の戦いに至るまでのいきさつ

ここで「なぜ鳥羽伏見の戦い」がおきたのか、おさらいしておきます。

大政奉還によって武力倒幕の待機名分を失った薩摩と長州は新たな倒幕の機会を探ります。

12月9日の政変・王政復古の大号令

慶応3年12月9日(1967年)第1回の新政府会議が開かれました。このとき薩摩藩・越前藩・土佐藩は御所を包囲しました。親徳川派の公家が退出した後、岩倉具視ら反徳川派の公家と大名の主導で会議は進み、幕府を廃止して天皇のもとに新しい組織を置いて政治をすることが決定しました。「王政復古の大号令」です。その後、徳川慶喜を新政府に参加させよとする公議政体派を武力で脅して徳川慶喜の処分を決定。徳川慶喜に官位と領地を返上するよう求めました。

倒幕派の動きは公議政体派にしてみればクーデターともいえるものでした。12月9日の政変ともいいます。

この決定を受けて徳川慶喜は幕府側の兵を連れて京の二条城を出て大坂城に移りました。12月9日の政変で京にいた会津藩・桑名藩や旧幕府勢力が暴発するのを防ぐためです。

公議政体派の工作で徳川慶喜への処分は形骸化し、徳川慶喜は諸外国の公私を大坂に集めて日本の外交権が徳川慶喜にあることアピールしました。

薩摩の挑発にのった幕府側が戦いを決意

徳川慶喜の影響力は復活しつつありました。そこで薩摩は江戸で強盗や放火などのテロ活動を行いました。薩摩の挑発にのった庄内藩が薩摩藩を攻撃。

大坂にこの連絡が届くと、大坂城内でも薩摩との戦いを行うべきとの意見が沸騰し。徳川慶喜を平和的に新政府に参加しようとする公議政体派の主張はかき消されます。

1月1日。徳川慶喜は強硬派に押し切られ、薩摩を討つよう命令「討薩の表」を出します。慶喜の目的はあくまでも薩摩を倒して上洛すること。朝廷に逆らうことではありませんでした。

1月2日。幕府と会津・桑名藩の兵は大坂を出発。淀城に入りました。

薩摩と長州も伏見や鳥羽に軍を派遣しました。

1月3日。薩摩は私闘になることを避けるため朝廷で会議を行いました。薩摩・長州の兵は慶喜の上洛を阻止するための新政府の軍となりました。

こうして旧幕府軍対薩摩軍の戦いは、旧幕府軍対新政府軍の戦いへとなりました。

鳥羽の戦い

慶応4年(1868年)1月3~5日にかけて現代の京都市伏見区下鳥羽・横大路・納所・淀のあたりでおきた戦いです。

新政府側の主力は薩摩藩。
旧幕府側の主力は京都見廻組、桑名藩、大垣藩

1月3日。大目付の滝川具挙が率いる旧幕府軍15000は淀城を出陣。二手に分かれ、一方は鳥羽街道を北上。一方は伏見に向かいました。

対する新政府軍の兵は5000でした。

鳥羽街道は京と大坂をつなぐ幹線道路でした。現在は旧千本通と呼ばれています。所々に寺院や古い建物が残る風情のある街道です。

千本通

京都と大阪を結ぶ幹線道路は国道1号線にとってかわられましが、混雑する1号線を嫌うドライバーも多く。現在でも狭い割には交通量の多い道路です。

鳥羽街道を北上した旧幕府軍は小枝橋のあたりまで来ました。

小枝橋は鴨川に架かる橋です。鳥羽街道は小枝橋を通って西に向かいます。

小枝橋

 

現在の橋は2車線の立派な橋が架かってます。これは平成になってかけ替えられたもの。かつての小枝橋は南側にありました。

橋の手前に土台の一部が写ってますね。平成6年ごろまでは細いけれども車が通れる橋がかかっていたのを覚えています。

江戸時代の小枝橋は更に南側。城南宮通りの先に橋がありました。

鳥羽街道を通って小枝橋付近まで来た旧幕府軍ですが。城南宮から小枝橋付近には薩摩軍が布陣していました。

京に向かおうとする幕府軍に対して、薩摩軍は「通せない」と断ります。交渉は長引きました。それもそのはず、もともと薩摩には通すつもりがありません。旧幕府軍を待たせている間に戦いの準備を進めていました。

夕方まで待たされた幕府軍はついにしびれを切らして発泡。それを戦闘開始だと思った薩摩軍の大砲が火を吹きます。午後5時頃、本格的な戦闘が始まりました。

小枝橋の東には鳥羽離宮公園があります。平安時代には鳥羽離宮があったところです。実際の鳥羽離宮はもっと広かったようですが。その一部が現在は公園として残されています。鳥羽離宮公園には「鳥羽伏見戦跡碑」が立っています。

鳥羽離宮公園

江戸時代にはこのあたりは田畑や竹藪のしげる丘になっていました。このあたりに薩摩軍は砲台を置いていたようです。

小枝橋付近で戦いが始まると、伏見の軍も戦いを開始しました。

数では劣る薩摩兵でしたが最新式の武器を装備して西洋式軍隊の訓練を受けていたため、優勢に戦いを進めます。

旧幕府軍でも幕府の直属部隊は新式の鉄砲を装備していました。桑名、大垣の兵も含めると薩摩よりも数は多かったのです。ほとんどの藩は幕府直属部隊や薩摩ほど近代的な武器をいません。旧幕府軍は戦国時代を引きずった古い組織のため。近代的な武器と戦術で戦いを挑んでくる薩摩軍に苦戦します。

薩摩軍有利のまま戦いは進み。日没とともに戦闘は終了。旧幕府軍は下鳥羽まで後退しました。薩摩軍は追撃はしませんでした。

鳥羽伏見の戦い最初の1日はわずか1時間で終わりました。しかしこのあとも戦いは続きます。

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