明石 全登大坂の陣で行方不明になったキリシタン武将

五七の桐

明石 全登 は大坂の陣で活躍した武将です。

大坂方に参戦した浪人の中では大坂5人衆といわれるほど有力な武将でした。
大坂の陣では少ない兵ながら健闘しました。

大坂の陣のあと生死は不明で様々な説があります。
自身も熱心なキリシタンでした。

明石 全登とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 明石 全登(あかし たけのり・てるずみ)とは

生年:不明
没年: 元和4年(1618年)
名前:明石 全登(あかし たけのり てるずみと読む説もあります)
別名:明石 景盛・守重(かげもり・もりしげ)
通称:掃部(かもん)
父:明石行雄(景親)備前保木城城主
  備前国・浦上家家臣、のちに宇喜多家家臣。 
母:モニカ(洗礼名)
  宇喜多直家の異母妹

生まれ年は不明ですが、永禄12年ごろではないかといわれています。

文禄3年(1595年)ごろにキリスト教に改宗したといいます。
文禄5年(1597年)ごろには家督をついで、和気郡大俣城の城主となりました。

宇喜多家では最大級の領地を持っていましたが、立場は客分でした。重臣として宇喜多家の運営には加わってなかったので宇喜多家中での発言力はそれほど大きくはなかったと思われます。そのかわりキリスト教の布教活動に熱心に取り組みました。

慶長4年(1599年)、宇喜多秀家の時代。宇喜多家でお家騒動が起きると重臣が抜けてしまいます。有力な重臣がいなくなってしまったため、全頭が家老として宇喜多家を立て直すことになりました。減ってしまった家臣を増やすため家臣の募集を行うなどしました。知行は3万3110石でしたが、豊臣秀吉からも知行を与えられ10万石となりました。

慶長5年(1600年)。徳川家康を討つため石田三成が挙兵します。全登は宇喜多秀家に従って伏見城攻めに加わります。その後は大垣へ向かいます。
9月14日。大垣周辺で行われた杭瀬川の戦いでは、島左近清興が東軍の中村一栄・有馬豊氏の部隊をおびき出したところに明石全登らが攻撃をしかけ大勝しました。

9月15日。関ケ原の合戦では宇喜多勢8,000名の先方を務めました。西軍の福島勢らを相手に検討しましたが、小早川秀秋の裏切りがきっかけとなり宇喜多隊は壊滅。戦場で自決しようとした秀家をいさめて大坂に逃げるように進言しました。全登は退却する秀家のしんがりを務め、秀家を逃がすことに成功します。

その後岡山城に戻りますが、城は荒らされていました。秀家と会うこともできませんでした。宇喜多家は取りつぶしとなり、全登は浪人となりました。

黒田如水の弟でキリシタンだった黒田直之が全登を匿ったとされますが。黒田如水がなくなると、長政はキリスト教を禁止。全登は黒田家を出ていきました。その後は吉田吉昌のもとに身を寄せたといいますが、よくわかっていません。

慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家康の対立が深まると、秀頼の招きにより、他のキリスト教信者をひきつれ大坂城に入りました。

 

大坂夏の陣

道明寺・誉田の戦い

慶長20年(1615年)5月6日。大坂夏の陣では道明寺の戦いに参戦。後藤又兵衛基次の部隊が先に行ってしまい、明石隊は遅れます。明石全登が到着したころには後藤隊は壊滅していました。薄田兼相、山川賢信の隊とともに水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と戦います。この戦いで敵方の同士討ちを引き起こすなど善戦しますが、薄田が戦死。全登も負傷し後退します。

天王寺・岡山の戦い

5月7日。兵300をつれて、茶臼山北西の木津川沿いに布陣します。
小倉行春らとともに徳川家康の陣に突撃しようと試みますが、真田信繁ら友軍が壊滅したことを知ると、戦場からの脱出を試みます。

 

水野勝成家臣の汀三右衛門が首を獲ったとも、石川忠総が打ち取ったとも言われますが。生存説もあります。

九州に逃げ延びたとも、伊達政宗に保護されたあと東北に逃げ延びたとも言われます。幕府の追求が厳しくなると、津軽(青森県)に逃げ延び、、津軽信枚に保護されたとも言います。

 

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