皎月院・石田三成の妻

五七の桐
五七の桐

豊臣秀吉に尽くした石田三成。

その石田三成の妻についてはあまり知られていません。

石田三成の正室は皎月院(こうげついん)といいます。

皎月院とはどのような人だったのでしょうか。

 

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皎月院(こうげついん)とは

 

皎月院の名前は うた だったとも言われます。

父は宇多頼忠。

三成が羽柴秀吉に仕えるようになった天正5年(1577年)から天正6年の間に結婚したと思われます。

天正7年(1579年)には長女が生まれました。

理論派で堅物な三成の奥さんですから苦労したとは思いますが。
うたのエピソードは残っていないのでどんな人だったかは分かりません。

慶長5年(1600年)関ヶ原の時には、三成の居城・佐和山城(滋賀県彦根市)にいました。
皎月院の父・宇多頼忠は、三成の父・石田正継とともに佐和山城を守っていました。

しかし、関ヶ原の戦いで三成が敗れると佐和山城は小早川秀秋らに攻撃されます。
石田軍は多くの兵が関ヶ原に出ていたため、少ない兵で果敢に応戦しました。
しかし援軍として佐和山城に来ていた長谷川守知(実は東軍の間者)が、小早川軍を城内に引き込んだため落城します。

三成の家族や宇多頼忠は自害。
皎月院ら子女は家臣の土田桃雲が刺し。
土田桃雲は城に火をはなち運命を共にしました。

また、皎月院は佐和山城落城当日は城におらず、
三成の処刑後に自害したという説もあります。

 

 

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皎月院の子供たち

 

皎月院と三成の子供を紹介します。

石田重家(いしだ しげいえ)

 

三成の嫡男・天正11年(1583年)または天正15年(1587年)生まれ。
関ヶ原の戦い当日は、人質として大坂城にいました。
三成が負けた知らせが届くと、石田家重臣・津山甚内らによって逃がされ、
京都の寿聖院で出家しました。
重家は若く出家したため、家康は許したということです。

 

石田重成(いしだ しげなり)

 

三成の次男・天正17年(1589年)ごろ生まれたと思われます。
豊臣秀頼の小姓として仕えました。
関ヶ原の戦い当日は大坂城にいました。
石田家家臣・津軽 信建によって逃がされました。
津軽の実家陸奥国津軽家を頼りました。
その後は、杉山源吾と名乗り津軽家の領内で暮らしました。
子の杉山吉成は弘前藩津軽家の家老を勤めました。

辰姫(たつひめ)

 

三成の三女。
豊臣秀吉の死後、慶長3年(1598年)ごろに高台院(おね)の養女となります。

慶長15年(1610年)ごろ。弘前藩主・津軽信枚に嫁ぎます。
慶長18年(1613年)、家康の養女・満天姫が信牧のもとに嫁いできます。
本州最北の地を守る津軽家と徳川家との縁を深めるためだったといわれます。

江戸幕府の意向を無視できない津軽家は満天姫を正室にし、辰姫を側室にします。
辰姫は津軽家の領地となった上野国大舘に移され、大舘御前と呼ばれるようになります。

津軽信枚は参勤交代の際は、大館に立ち寄り辰姫と共に過ごしました。

元和5年(1619年)、長男・平蔵が生まれます。

元和9年(1623年)、辰姫は大舘で亡くなります。享年32。

平蔵は弘前藩邸に引き取られました。津軽信義と名を改め信枚の死後、弘前藩主となります。

 

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真田家とのつながり

 

皎月院の父、宇多頼忠は真田昌幸の正室・山手殿の弟だという説もあります。
当時の真田家と宇多家のつながりは分からない部分が多いので、異論もあります。
大河ドラマ「真田丸」では山手殿(薫)は公家の娘ということになっています。
真田家と石田家の縁はなさそうです。

昌幸の娘・趙州院(於菊)が皎月院の従兄弟、宇多頼次に嫁いでいます。
こちらは事実だったようです。
この関係を元に山手殿=宇多頼忠の姉説はあとから考えられたとも言われます。

大河ドラマ「真田丸」では昌幸の娘は松(村松)しかいないので於菊の出番はなさそうです。
となると、ますます真田家と石田家の縁はなさそうですね。

 

 

 

 

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