穴山信君(梅雪)・武田信玄に仕え、肝心なところで勝頼を裏切った男

武田菱
武田菱

穴山信君(あなやま のぶただ)は武田信玄に仕えた武将です。

梅雪(ばいせつ)とも言います。

武田勝頼が家督を相続した後は家臣の中でもトップクラスの人物でした。

ところが存在でありながら肝心なところで裏切ってしまいます。重臣のトップが裏切ったものだから家中は騒然。

このあと一気に武田家滅亡につながります。

さて、この穴山梅雪とはどういう人なんでしょうか。

 

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穴山梅雪は武田二十四将の一人

 

穴山梅雪の本当の名前は「穴山 信君」(あなやま のぶただ)。
晩年には頭を丸めて「梅雪斎不白」と名乗ったので「穴山梅雪」と呼ばれます。

武田二十四将の中でも上の方に描かれるほど重要人物です。

穴山氏は武田の親戚

 

穴山氏って今川氏と仲がよかった時代もあり、武田氏と仲が悪かった時代もあります。
信玄の父親・武田信虎の時代になると穴山氏は武田氏の家臣になり、以後は武田の家中でも重要なポジションを占めるようになります。
穴山氏は武田氏と婚姻関係を結んで、関係が強くなります。つまり親戚になります。

穴山氏は「武田」の姓を名乗ることを許されるほど重要な一族でした。

梅雪の母は信玄の姉。
梅雪と勝頼はいとこになります。

 

信玄時代の穴山信君(梅雪)の働き

川中島の合戦では、本陣の守りを任されるほどの重要人物。

信玄の嫡男 義信が謀反の疑いで幽閉されたとき、信君の弟が処刑されてます。
信君自身が関わったかどうかは分かっていません。処分されなかったので関わってなかったのでしょう。
このころあたりから頭を丸めて「梅雪斎不白」と名乗るようになります。意味深。

外交も得意で今川氏との戦いでは今川家中への寝返り工作を担当しています。
今川攻めでは信玄と徳川家康は一時的に同盟を結んでいますが、徳川氏との交渉も担当していました。
けっこう、顔がきくんですね。このときの人脈があとで織田に寝返るときに役立ったのかもしれません。

今川氏滅亡後は、駿河に領地を与えられてます。

 

勝頼時代は?

信玄亡き後は親戚でも筆頭として存在感は大きくなります。
でも、勝頼とは険悪な仲だったようです。

長篠の戦い(1575年)では古参の重臣は勝頼に撤退すべきと進言するも聞き入られませんでした。

それでも他の重臣は勝頼の命令どおり戦って、結果として戦死しました。
でも、穴山信君は陣の中央を任されながら早々と敵前逃亡。残った重臣の部隊に被害が集中し武田軍敗因のひとつと言われています。

勝頼に従う家臣からは、処分すべきとの意見も出ます。
でも、勝頼は親族筆頭の梅雪を処分する事はできませんでした。
そんな梅雪ですから当然、勝頼に従う家臣とも仲が悪くなります。

その後、嫡男・勝千代に勝頼の娘を嫁がせるという話が白紙にされたため、勝頼に対する忠誠心が失われたといわれます。
このころから徳川を通して織田への内通をはじめます。

1582年2月、織田信長は嫡男の信忠を大将にして武田攻めをはじめると、それに呼応して勝頼を裏切ります。

梅雪は徳川家康を通して織田信長と密約をかわしていました。
その内容は「甲斐の国を与えること、武田氏を名乗ること」だったといわれています。

梅雪の言い分としては、「武田氏」を残すこと。なんですが。
自分の家の存続のため寝返ったともいえますね。

武田家滅亡後の穴山氏

勝頼が死亡した後はそれまで治めていた領地はそのまま持つことを許されて、徳川家に使えることになります。

1582年5月、信長に会う為に家康と共に安土に行きます。堺を見物して京に行く途中。あの「本能寺の変」が発生してしまいます。

信長の死を知った家康と梅雪はあわてて逃げ出します。梅雪は自分の領地を目指して家康の一行とは送れて行動していました。

その結果、落ち武者狩りにあって死亡してしまいます。落ち武者狩りをしていた農民は光秀の命令を受けて家康をさがしていたともいわれますし、家康と間違って殺されたとも言われます。

勝頼が死亡してわずか4ヶ月後のことでした。

 

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梅雪亡き後穴山氏は

梅雪死亡後は、嫡男の「勝千代」が後を次ぎます。
織田・徳川との密約で武田氏を名乗ることを許されてたので梅雪存命中から勝千代は「武田信冶」と名乗ってました。

徳川家の家臣となりますが、1587年に疱瘡で死亡します。享年16歳という若さでした。
信冶には子供がいなかったので、穴山家(穴山武田家)は断絶します。
武田家滅亡から5年後のことでした。

親の代から仕えてた武田家を裏切ってまで生き残ろうとしたけど、あっけなく途絶えてしまいました。

因果応報でしょうか。

 

穴山武田家は家康の五男が武田信吉と名乗りあとを継ぎます。
信吉の母は武田家家臣 秋山虎泰の娘。武田家の血筋が欲しかった家康は武田家ゆかりの血筋の娘を側室にしました。そのとき穴山梅雪の養女にしたあと、徳川家に入ったといわれています。その子供に武田家を継がせることで、武田家の家名を残そうとしたのでしょうか。

秀吉の小田原攻めのあと。
1590年。徳川家康は関東に移動になりますが、武田信吉も下総国小金城に移動になってしまいます。そのときに松平姓に変わりました。

結果として、穴山武田家も残りませんでした。

 

 

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