武田勝頼・諏訪家を継ぐはずが武田家の主に、血筋に翻弄された悲運の武将

武田菱
武田菱

武田勝頼は武田信玄の息子。後継者だとされます。じじつ武田信玄のあとをついで武田家を仕切る立場にいました。でも勝頼の代で武田家が滅亡したため、歴史ファンの評価は高くありません。武田勝頼は無能な武将と思われがちです。

大河ドラマ「真田丸」の第1話は天正10年(1582年)からはじまります。武田家ではすでに信玄が死に勝頼の代になってます。

真田家当主の昌幸(幸村の父)は武田家のために頑張ってますが戦国最強といわれた武田家が滅亡寸前。なんでこんなことになってるの?平岳大演じる武田勝頼って悲哀の感じる武将って感じですが。いったどんな人?次々に疑問がでてきます。

勝頼の人生を描いたテレビドラマは殆どありません。いつもやられ役です。

武田勝頼とはどんな武将だったのでしょうか。

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武田勝頼を知るために大切なのは出生と血筋

母の血筋が勝頼の運命を決めた

武田勝頼は信玄の四男。

母親は信州諏訪の領主諏訪家の姫でした。

「真田丸」での勝頼は真田家に対して気を使ってるように描かれてます。甲斐の名門を受け継いだからには甲斐の人間として振舞わなければならないという責任感があります。でも心の中では信州の人に対して親しみがあるのかもしれません。

じっさいのところ、勝頼に忠誠を尽くす家来には諏訪出身の人が多いのです。真田丸第一話で裏切ってしまう穴山氏や小山田氏も信玄時代からの甲斐の武将なんですね。

諏訪家は信玄の父の代には同盟関係にありましたが信玄の代になって疎遠になり結局、信玄が諏訪家を滅ぼして諏訪の領地は武田家のものになります。信玄は諏訪家の姫(諏訪御料人・名前不明)を側室に向かいいれました。2007年の大河ドラマ「風林火山」では「由布姫」と呼ばれ「柴本 幸」が演じています。

信玄と諏訪御料人との間に生まれたのが勝頼です。生年、幼名は分かっていません。勝頼の子供時代の記録はあまりありません。信玄にとっては四男でしたし、占領した領地の姫の息子ということであまり重要視されてなかったようです。

占領した領土の姫と婚姻関係を設けて、占領した領地の支配権を正当化するのは古今東西よく行われている方法です。でも、武田家中には諏訪の姫を側室にすることには反対の意見もありました。諏訪家はそれほど重要な勢力とは考えられてなかったようです。

でもなぜか信玄は諏訪御料人に執着し、子供もできます。諏訪御料人は美人だったという説もありますし、信州を治めるためには諏訪の血筋が必要と考えていたのかもしれません。

武田家の家臣としての諏訪勝頼

諏訪御料人の息子は1562年、諏訪四郎勝頼と名乗ることになります。信濃の地を治めるための諏訪の血を引く勝頼を送り込むため諏訪家を継がせました。信濃国高遠城の城主となった諏訪勝頼は諏訪の地を任されると共に信玄の行う戦にもたびたび出陣。数々の手柄を立てます。北条との戦いでは殿(しんがり)をまかされることもありました。戦場での勝頼は無能な武将どころか勇敢で頼れる武将として信玄からの信頼も厚かったようです。

諏訪の領主として十分な働きをしていた勝頼ですが、1565年勝頼の人生どころか武田家の運命を変える転機がおとずれます。

信玄の嫡男、武田義信が謀反の疑いで囚われて自害に追い込まれます。信玄の次男は盲目のため当主は勤められません。三男は既になくなっています。結局、勝頼が跡継ぎととなるべく諏訪家から武田家に呼び戻されます。

 

運命を変えた武田家相続

でも、いくら信玄の血をひくといっても、占領した領地の姫との間に生まれた勝頼です。武田家の家臣としてはそれなりの存在感はあっても、武田家の当主として従うことに抵抗のある人は少なくありません。

勝頼は徳川との戦いにおいて功績をあげるものの、家臣団との溝はなかなか埋まらなかったようです。

しかも、信玄も勝頼を正式な跡継ぎと認めていたわけではありませんでした。

勝頼は、陣代(じんだい)だというのです。

陣代とは、主君が幼い場合にかわりに政治をしたり軍の指揮を取る人。軍代ともいいます。
つまり、孫の信勝が成長するまでの中継ぎ、後見人にすぎないということです。

いくら頑張っても父親に認められない。勝頼のショックはどれほど大きかったのでしょうか。

正式な後継者でないのならば、従わない家臣がいてもおかしくありません。
諏訪の血をひく勝頼が武田家を相続することへの家臣の反発を心配してのことだったのでしょう。でも時代は信勝が成長するのを待ってはくれなかったのです。

1573年、信玄が死亡し勝頼が武田家の指揮をとります。。
それまで信玄相手に劣勢だった織田・徳川連合軍は反撃を開始。それに対し勝頼も積極的に勢力を拡大。織田・徳川方の城を次々に攻め落とします。信玄時代よりもさらに武田家の勢力範囲を広げることに成功します。信玄亡き後も戦場においては武田軍の強さは衰えることがなかったのです。

でも、武田家では相変わらず勝頼と古くからの家臣との間は仲が悪い状態でした。勝頼は自分に従う諏訪の勢力を重用するようになります。

織田・徳川は勝頼に不満を持つ武田方の武将に寝返り工作を仕掛けます。

長篠の戦いに関わった人々の思い

そして1575年、長篠の戦いが勃発。
武田軍は、織田・徳川連合軍に敗退。しかも信玄時代から使える有力な重臣の多くが戦死しました。

一般的には武田の騎馬隊を織田の3000丁の鉄砲隊が三段撃ちで、銃弾を浴びせたために騎馬隊を破ったといわれています。
でも当時の記録には三段打ちは書いてないんですね。三段うちは江戸時代に書かれた書物に出てくるので本当かどうかわかりません。

予想外の抵抗を見せる織田方の城に対し、少ない数で無茶な城攻めを仕掛けたことが原因という説もあります。

信玄時代から使える古参の重臣はいったん撤退することを進言しますが、勝頼と親しい諏訪時代からの家臣は強行することを進言します。勝頼は数々の勝利により自信過剰になっていたのかもしれません。

織田信長は浅井、朝倉を滅ぼし、織田包囲網を次々と打ち破り急激に勢力拡大しています。武田軍との戦力差は開く一方でした。今はなんとか持ちこたえていられるけれど、時間がたてば更に織田軍が強力になってくるという焦りはあったかもしれません。

結果、古参の重臣の意見は採用されず、決戦を行うことになったのです。

戦が行われたのは5月下旬。梅雨時でぬかるんだ田畑を騎馬で突撃するのはあまりにも不利。しかも梅雨時にも関わらず戦当日は晴れ。鉄砲隊にとっては絶好の戦日和。武田軍は大損害を出します。

しかも徹底の最中、古参の有力武将が次々と戦死します。多くの古参武将が撤退の最中に戦死したことについては、勝頼の元ではやっていけないと考えた古参の武将が死に場所を求めてあえて敵軍に身を投じたとの説もあります。

勝頼にはもうついていけない、かといって武田は裏切れない。ならば武士の生き方としては戦場で散るという選択をしたのかもしれません。撤退する当主を守って死んだということであれば、家名に傷が付くこともありません。
逆に早々と敵前逃亡して生き残ったのが、あとで裏切る穴山梅雪たちなのですから皮肉なものです。

いずれにしろ。この戦いで武田家の勢力は落ちます。

長篠の戦い以降

その後、勝頼は武田軍の建て直しにとりかかります。
長篠の戦いのあと武田家はすぐに滅んだ。という言われかたをしますが7年間持ちこたえています。

ただ滅びを待つだけではありません。軍備を整えると共に、上杉と同盟を結びます。真田昌幸の活躍もあり、北条に対しても互角の戦いをみせ和解にもちこみます。織田とも和解工作を始めます。1581年、本拠地を防御のしやすい新府城へ移します。これが「真田丸」第一話で出てくる新府城です。

でも武田家の衰えを止めることはできません。徳川に高天神城が落とされると武田方に味方していた武将の間に動揺が広がります。その間も、織田、徳川の寝返り工作は容赦なく行われます。寝返るものが続出します。

そして1582年。かねてより勝頼に不満のあった木曾義昌が織田方に寝返ります。義昌は信玄の娘婿。武田家でも有力な勢力だっただけに大きな打撃でした。

勝頼は木曾義昌征伐のために軍を出しますが、雪に阻まれたことと地の利を生かした木曽軍にてこずります。その間に織田、徳川軍の侵攻が始まります。しかも間の悪いことに浅間山の噴火が重なり武田領は混乱します。浅間山の噴火はドラマ中ではコミカルな描写になってますが、領内に動揺が広がったようです。各地の城は組織的な抵抗ができずに次々に織田・徳川方に降伏、占領されていきます。

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不遇の武将・勝頼

勝頼が諏訪家の当主であれば武田家中で信濃方面を治める軍団の長として、信濃の領主として、次世代の武田軍では勇猛果敢な武将として高い評価を受けたかもしれません。

事実、織田信長や上杉景勝も勝頼のことは武勇に優れた人と評価しています。
周囲の有力武将もその強さは認めていました。

しかし、武田家の正式な跡取りとして家臣の信頼も厚かった義信と家臣の立場からのし上がった諏訪家の人間では周囲の対応がまったく違います。

武田家は信玄ですら家中を意のままにまとめることができたのは晩年になってからだといわれるくらい。まとめるのが難しい集団でした。途中から入ってきたよそ者がまとめることなど無理な話だったのです。それでも織田家、徳川家、上杉家、北条家という最強クラスがひしめき合う戦国時代屈指の激戦区で、武田家の勢力を過去最大規模に広げるなど非凡な才能を見せました。

でも、調略や政治工作では信長や家康に劣る部分があったし、強気が裏目に出ることもありました。

信長や家康も若いころは失敗をしました。でも当時はまだやり直すことができました。勝頼の時代は周囲を戦国最強クラスの大大名に囲まれてました。大大名でも一度の大敗北が致命傷になりかねない状態でした。

もし勝頼が地方の大名であれば十分に名武将として後世に名を残したかもしれません。おかれた境遇が悪すぎたといえるでしょう。

歴史の評価の難しさ

歴史の評価というのは、結果を知ってるものの身勝手な評論に過ぎません。テストの答えを知っている者が、テストの答えを間違えたものに対して「こんな事も知らないのかバカだな」と言ってるのと同じです。現代人も一ヶ月後の国際情勢や経済がどうなっているのか正確に当てることできません。

実際のところ歴史の評価というのは評価する人の価値観で変わってきます。評価する人の数だけ存在するといえます。ひとそれぞれにいろいろな考えを持つ事が出来るのが歴史の楽しみでもあります。

なぜ、そういうことになってしまったのか。
どういう事情があったのか。
そのとき何を考えていたのか。

それを考え知ることが歴史を深く理解することになると思うのです。

大河ドラマは歴史の教科書ではわからない歴史の面白さを教えてくれるドラマであってほしいと思います。

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