山本勘助・武田信玄に仕えた築城・情報収集の名人

武田菱
武田菱

山本勘助は武田信玄(晴信)に仕えた武将です。軍師と言われることがありますが、勘助自身は身分の高い人ではありません。築城や情報収集に優れた人物だったと言われます。

山本勘助は40歳を超えて武田家に士官しました。まるで中年サラリーマンの中途採用みたいなものです。今川、北条といった大名たちが採用しなかった人材です。武田家ではよほど人が不足していたとも考えられますし。武田信玄は人を見る目があったともいえますね。

山本菅助とはどんな人だったのでしょうか。

 

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 山本勘助とは

 

名 前:山本勘助(やまもと かんすけ)・晴幸(はるゆき)の説もあり。
幼 名:源助
生 年:年(1679年)
没 年:年月日(1703年)
父:山本貞幸(光幸ともいわれます)
母:大橋入道の娘・安女
妻:原虎胤の姪あるいは妹、穴山伊豆守の妹の説もあり。
先妻がいたという説もあります。
子:山本信供
先妻との間に娘がいたという説もあります。

 

山本勘助の父・山本貞幸は駿河国駿東郡の葛城氏に仕える吉野家の出身だといわれます。吉野家は駿河国富士郡山本村(静岡県富士宮市山本)を本拠地として周辺に領地を持っていました。吉野家の初代は多田野森八幡宮を創設しました。

吉野貞倫の次男坊だった貞幸は”山本浪人”と名乗って各地を武者修行して旅をしたといいます。そのご、三河国賀茂(賀茂村も吉野家の領地)に移り住みました。そこで産まれた子供が勘助だったといわれます。

三男だった勘助は15歳で牛窪城牧野家の家臣大林勘左衛門の養子になりました。勘左衛門の”勘”の字をもらって”大林勘助”と名乗るようになりました。伯父(祖父との説もあり)山本帯刀左衛門成氏から武術を学びました。大林家では兵法などを学んだといわれます。

放浪生活

勘助は20歳で武者修行の旅に出ました。名を挙げるために各地の道場で武芸を磨いたと思われます。勘助は体中に傷があったといわれますが、武者修行の時代に受けたものかもしれません。

25歳のころ。高野山に行き、摩利支天堂に篭りました。夢の中で空海が現れて摩利支天の像を授けられたといいます。これ以降、勘助は摩利支天を守護仏とします。

四国、九州、山陰、山陽を旅して各地の大名の知識を蓄えます。

35歳で大林家に戻ってきました。長く家を出ている間に、大林家では実子が産まれて後を継ぐことになっていました。そこで勘助は実家に戻り山本姓にもどします。

勘助は再びたびに出ます。今度は関東方面でした。上杉憲政の屋敷に滞在したり上野の中野家、信濃の真田幸綱とも会っています。北条氏に仕官しようとしましたが断られました。

42歳の頃。母の従兄弟の庵原安房守忠房を頼ります。庵原忠房は今川家に仕えていました。忠房は勘助を今川家に士官させようとしました。

若い頃の勘助は武術を磨いていましたが、このころになると塾か道場のようなものを開いて武芸や兵法を教えていたと考えられます。それなりに名声は広まっていたようです。

しかし今川義元は仕官を許しませんでした。義元が傷だらけで要望の醜い勘助を嫌ったからだともいわれます。定かではありません。

勘助は今川家への仕官を諦め、仕官先を求めて放浪します。

武田家に仕官

天文12年(1543)。武田晴信(信玄)に300貫で召し抱えられました。浪人の仕官としては高給です。板垣信方の推薦があったといわれます。武田晴信から”晴”の字を譲り受け、山本勘助晴幸と名乗ったといいます。

武田家は晴信が父・信虎を追放して武田家当主となって2年がたっていました。晴信は武田軍団の強化に乗り出していました。戦国時代の大名家は土地に根ざした領主の連合体です。江戸時代の大名家のような大名に忠誠を誓う中央集権的な組織ではありません。武田家に限らずどこの戦国大名も似たようなものでした。

晴信は自分の意志で動く直属の部下を増やそうと考えていました。そのなかで有望とみた者は採用していったと考えられます。

武田家の事情もあります。晴信は信濃への侵出を行っている最中でしたが、急激に領土を拡大したために城と城を守る兵が不足していました。そこで城取り(城を設計して作る人)に詳しい人材として板垣信方が注目したのが勘助でした。

また、吉野一族の領地は武田の穴山家の領地と接していました。吉野家は穴山家とも交流があり吉野家の娘が穴山信綱に嫁入していました。信綱の息子・穴山信友は母の実家の菩提寺に自走菩薩像を奉納しています。

勘助は兵法家としての名声や本家である吉野家の縁も利用して武田家への仕官をはかったのかもしれません。

勘助は足軽25人を指揮する立場となり。晴信直属の部隊(旗本)に配属されました。

天文15年7月21日(1546)。合戦での功績や諸国を回って得た情報を晴信に伝えた功績が認められました。足軽50人。500貫を追加され、足軽75人、800貫となりました。足軽衆の一員となります。勘助の屋敷は甲府にありました。普段は信玄のお膝元の甲府で暮らしていたようです。しかし家臣団の屋敷のなかでは端っこの方に屋敷がありました。身分的には高い待遇ではなかったようです。

永禄4年(1561)。第四次川中島の合戦で戦死します。享年62。
甲陽軍鑑によればこのとき武田軍はきつつき戦法、鶴翼の陣を採用。上杉軍は車係の陣を採用したといわれます。

勘助は築城の名人

山本勘助は築城技術に優れた人物だとされています。武田家の得意な築城技術にに丸馬出しがあります。北条、織田、豊臣系の城では角馬出が使われるのに対して、武田、徳川系の城でよく見られます。

武田家でも信玄以降の時代、特に甲斐以外の地域によく見られる技術です。信虎の時代よりあとに晴信が色げていった領地に作られた城に作られることが多かったようです。

甲陽軍鑑では丸馬出しは馬場美濃守が山本勘助から教わったとされています。信濃国の海津城、岡城も馬場美濃守が手掛けた城です。武田家滅亡後は真田家が丸馬出を用いますが、武田家に伝わる技術を受け継いでいるからなのですね。

勘助は軍師だったのか

山本勘助は軍師だと言われますが、甲陽軍鑑の中で書かれた山本勘助は軍師ではなく足軽大将の一人でした。勘助の足軽部隊は武田家の足軽大将の中ではトップクラスの規模を誇りました。しかし足軽大将は武田家譜代の家臣団の下の立場です。最前線で兵たちを指揮して、戦ったり城を守ったり、情報を集める現場監督の役目でした。高い身分とはいえません。他国出身の元浪人ですから仕方ない面はあります。

甲陽軍鑑の中では山本勘助は足軽大将の一人として登場します。勘助は川中島の戦いできつつき戦法を進言しましたが、見破られて命を落とすという不名誉な扱いを受けています。合戦内容の真偽はともかく、後世の人が言うほどの大物軍師とは描かれていないのですね。山本勘助は武田信玄の軍師だというのは後世の人が作った伝説といえそうです。

ところで、軍師というのは江戸時代になって文学の中で作られた架空の職業です。戦国時代には軍師という肩書は存在しませんでした。知恵の働く家臣が主君に進言していたものが後世に軍師と呼ばれるようになりました。

山本菅助の名前の残る市川文書

山本勘助は甲陽軍鑑にしか登場しないと考えられているため。長く実在しない人物とされていました。

市川家文書では武田晴信の使者として”山本菅助”が登場しており、晴信の手紙には武田信玄の家臣で信濃国志久見郷の市川藤若に対して、信濃方面で長尾景虎との攻防の様子を伝えた後、詳細は山本菅助(勘助)に聞くように書かれています。山本菅助が晴信あるいは晴信の側近につかえていたことが想像できます。信濃方面の情報に詳しい人物とも考えられます

この書状の中には、真田、原左衛門尉が登場します。原左衛門尉は真田幸綱(幸隆)とも行動をともにしていたことのある足軽大将です。原左衛門尉は小畠虎盛の舅でした。小畠虎盛は最終的に甲陽軍鑑を発行した小幡官兵衛景憲の祖父にあたる人物でした。足軽大将にすぎなかった山本勘助が甲陽軍鑑に頻繁に登場するのは、原左衛門尉と何らかの関係があったせいかもしれません。

甲陽軍鑑について

山本勘助は甲陽軍鑑にしか登場しないと考えられていたため長く架空の存在だとされました。

甲陽軍鑑は武田信玄に仕えた高坂弾正昌信が大部分を書き、甥の春日惣次郎が補足し、江戸時代書記に武田家臣の小畠虎盛の孫・小幡官兵衛景憲が出版したといわれます。江戸幕府が教科書として採用したことから江戸時代には大流行しました。しかし流行すると反発は起きるものです。江戸時代後半には甲陽軍鑑を批判する書物が出版されます。

明治になると徳川の権威を否定しようという空気が広がりました。明治24年、東京帝国大学の田中義成教授が「甲陽軍鑑は小幡官兵衛景憲のでっちあげ」だと決めつけました。権威のある東大教授の言葉ですから歴史学会の主流となりました。現在も東大の教授が作った流れが主流となってるので甲陽軍鑑には否定的な意見が多いです。

従って甲陽軍鑑の中にしか名前がないと思われている(実際には記録もあるようですが)山本勘助は存在自体が否定されました。昭和43年。北海道の市川家から”山本菅助”の名前の書かれた文書が見つかり。山本勘助は実在すると考える人もいますが、研究者の中には実在しないと考える人もいます。

甲陽軍鑑の記述は間違いも多く。かなり主観的な書かれ方をしています。歴史の記録や兵法書というよりは、高坂弾正昌信が過去を思い出しながら自らの考えを書いたものが原型になっているといえそうです。後世の人が手を加えた部分もあると言われます。つまり高坂弾正昌信が回想録としてまとめたものをひきついだ小幡官兵衛景憲が手を加えて大げさに出版したものかもしれません。歴史書として見る場合は割り引くことも必要かもしれません。だからといって、全てウソとも決めつけられず。内容の取捨選択が研究者の腕の見せ所となりそうです。

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